にっぽん集落町並み縦走紀行 
  
第17日 米原(滋賀県)~高山(岐阜県)
     大聖寺 東谷  白峰


白峰(石川県白山市)

 
 7月連休前の金曜日の夕方。会社から家に帰ってから旅支度をしたので、出発が1900近くになってしまった。縦走紀行の今回は中部地方、米原から石川県を経て岐阜長野と大きく移動するため現地でのレンタカーは使えない。そこで、マイカー万訪号の出動となる。「万訪号の歴史」でも書いたが、このクルマはエンジンをかなりいじっている。昨年夏の猛暑日に繰り出した東京都檜原村「天界の村を歩く特別編」では、登坂時のエンジンの発熱に冷却が追い付かず山岳集落に上れなかった。つまり、急な上りが連続すると水温がみるみる上昇して沸点に達してしまうのである。そうなると水は水蒸気となりラジエターやエンジン壊してしまので休ませて冷却しながら行くか、檜原村の時のように進行を断念せざるを得ない。今回の旅では、白山スーパー林道と野麦峠が難所となる。もしかしたら越えられないかもしれない。そんな不安を持ちながら18:45、東京の自宅を出発した。首都高は大渋滞で抜けるのに45分もかかり、御殿場から新東名を経由して米原ジャンクションにたどり着いたのが深夜2330。前回米原駅で終わっているから、今回はここが始点になる。北陸自動車道を経由して石川県の大聖寺駅前のビジネスホテルに到着したのが0:45。東京から6時間かかった。初っ端からきつかったが、明日以降はゆっくり移動する計画である。

米原ジャンクションからスタート

 17日朝くもり。縦走紀行の初日としては珍しく雨が降っていない。梅雨前線に向かって南から湿った空気つまり大量な水が供給され、北部九州では大変な水害が起こっている。石川県はちょうど梅雨前線の真下にいる状況なので、今は大丈夫でも山沿いは注意しないといけない。900大聖寺の町から歩く。大聖寺は加賀藩の支藩前田家の城下町であるとともに北国街道の宿場町でもあった。クルマで流すが寺の大屋根ばかり目立って町並みの主軸が見えない。本町に町並みの案内板があったので見てみると、北国街道は大聖寺の町中を複雑に折れ曲がりながら抜けている。なるほど、そのせいで町並みが見つけにくくなっていたようだ。本町から東進した北国街道は、願成寺の手前で向きを変え、願成寺の正面にある門前町に線形を重ねるために回り込み、寺の前で再び東に向きなおして小松を目指している。願成寺の界隈が赤瓦の大屋根を背景に絵になる町並み景観を創りだしていた。古い町家は、赤瓦の切妻平入り屋根、太い部材の上り梁、ムク板材あるいは銅板でムクリをつけて葺かれた1階庇など、この地方の特色を良く残している。

 ここで、福井県から富山県にかけての北陸3県の集落町並みについて簡単に触れておこう。街道系の町家は、大聖寺に見られたこの上り梁の形態というのが共通していると思う。印象深かった町並みを紹介すると福井県今庄勝山鯖江、富山県高岡金屋町吉久東岩瀬福光などであろうか。一方、農村部になると規模の大きな立派な農家が現れる。特に能登半島(久江高畠能登部など)や富山県砺波平野が目を見張るものがある。また、下見板張や竹垣が特徴の日本海岸の漁村(石川県黒島上大沢、富山県新湊など)、北前船の船主や寄港地として栄えた集落(福井県河野三国、石川県橋立瀬越塩屋など)、金沢をはじめとする都市部の旧遊里(金沢東茶屋街西茶屋街主計町石坂町など)も忘れてはならない。そして、富山県の山間部に足を踏み入れれば、岐阜県白川郷と並ぶ五箇山(菅沼相倉など)の合掌造り群が世界遺産になっている。それから、、、もうやめて別の機会に詳しく紹介することにしよう。

【回想】五箇山相倉(富山県)

 このように、北陸3県に歴史的な集落や町並みは多く、バラエティにも富んでいるといえるが、中でも石川県は重伝建地区の指定に積極的である。平野部の古い町家が軒を連ねるようないわゆる町並みはすでに指定されているので、今やそれ以外の農村漁村の集落系に目が行くようになり、最近では山間部の集落が新しく指定になった。こういう農山村の集落系は今まであまり見出されていなかったところが多いから、なんら文献に紹介されていなかったような場所が突然指定される場合も少なくない。縦走紀行第6日で訪れた長崎県的山大島神浦もそうだが、これから訪れる東谷もいきなり指定されてあたふたした。で、こうしてやって来ることになる。
 大聖寺前田藩は、山間部の東谷西谷を「奥山方」と称して藩の炭役として位置づけ炭を生産させた。明治期になって炭焼きは産業化し、林業も加わって二つの谷は繁栄した。大聖寺川の西谷の方は残念ながらいくつかがダムの底に沈んでしまったが、動橋川(いぶり)の東谷は存続した。動橋川の東谷は平らな農地をだんだん狭めていく。東谷の荒谷、今立、大土、杉水には、赤瓦を葺いた切妻屋根に煙出しを設けた造りのしっかりした民家が多く残り、全体として統一感のある歴史的な集落が景観を形成している。これらの民家は江戸期のまま残っているわけではなく、茅葺きから瓦葺きに改築されながら、あるいは明治以降に建て替えられながら一つの特徴的な様式に発展したものといえよう。こうしたしっかりした質の高い民家は、先にも紹介したように北陸3県に共通して見られる現象で、全国的にみても優れていると思う。またそれは、現在まで建替えられることなく大切に使い続けられている所以なのかもしれない。

東谷大土の町並み(石川県)


大聖寺本町・京町の町並み(石川県)

大聖寺山田鍛治町の町並み(石川県)

【回想】今庄の町家(福井県)

【回想】能登部の町並み(石川県)

【回想】河野の町並み(福井県)

【回想】金沢東茶屋街の町並み(石川県)

東谷今立の町並み(石川県)

東谷荒谷の町並み(石川県)
 東谷から白山山麓の白峰村を目指す。直線距離では近いけれど道はなく、大きく迂回するように福井県の勝山を経由し1時間半を要した。白峰村も東谷同様に近年伝建地区になったばかり。山深いのに手取川の谷は広く思っていた以上の大きな集落だ。白峰は白山を挟んで岐阜県白川郷と対照の位置にある。白川郷は有名な合掌造りの集落で世界遺産にもなっている。合掌造りというのは養蚕や大家族制が生んだ多層民家の一形態である。この白山にも同様に多層民家があると聞いているがこっちの方は有名ではない。いったいどんな形をしているのだろうか。切妻平入りで高い土壁にポツ窓をいくつも開けた余り見慣れない大きな民家が現れた。これか。集落の中にはこの多層民家は1棟しか見つけられなかったが、町の民俗資料館の野外展示に移築復原された古民家で見られた。その形、どこかで見たことがあるぞ。兵庫県但馬地方の養蚕農家の系統だ(兵庫県養父町畑大屋町大杉など)。しかし、この三階建ての切妻造りはすごい迫力である。白川郷の合掌造りに負けず劣らずだ。また、白峰では出作り小屋というのがあって、日本昔話にでも出てきそうなかわいらしい茅葺民家だった。

白峰の出作り小屋(石川県)
 

白峰(石川県)

白峰 白山ろく民俗資料館(石川県)の多層民家
 これから、問題の白山越えである。もし、エンジンの水温が上昇しこれ以上登れないときには潔く下山し、とんでもなく大きく迂回しなければならない。でもさすがに高所だから気温は低いので、危惧しているエンジンの水温上昇にはいい条件だ。いけそうである。山には残雪もみられるようになってきた、よしよし。下ることのない急な登坂が連続するようになり、もうすぐ加賀と飛騨の国境だぞ!という1キロ手前でついに水温が100℃になった。クールダウン。ちょっと走ってもう一回クールダウン。二度休んで、何とか無事越えられた。路肩には残雪があるのになんで?と首をかしげるが、ここからは白川郷へ一気に下るのでもう心配はいらない。

 白川郷荻町は世界遺産にもなっている合掌集落。よくこんなにたくさん合掌造りが残っているもんだと思われるが、中には合掌を崩して低いトタン屋根にしたのを再度合掌に復原している家もある。白川郷は重伝建になり世界遺産になり年々観光客が増しているが、彼らは合掌造りに泊まりたい。民宿経営で利益を上げるには合掌造りであることが第一条件なのだ。以前、合掌造りを崩してしまった家で民宿をしている家の人から聞いた話。集落に入るには混雑した駐車場を利用せねばならないし人でいっぱいだから行く気はしない。城山の上に立って俯瞰するだけにしよう。
 かつての秘境も今では高速道路が走っている。初めて来たときは高山から険しい峠を越してきたが、今ではたやすく移動できる。今宵は、高山本町の宮川右岸にある寿美吉旅館というお気に入りの宿に泊まる。大学時代に来たのが初めてで、今回は3回目。直前の予約だったので、川に面した部屋ではなく通り側だった。それもまた町の中にいることが実感できて良いものだ。
 
 

白川郷荻町 城山からの俯瞰(岐阜県)

高山本町 宮川右岸に建つ寿美吉旅館(岐阜県)
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