金沢
東茶屋街
城下町の東郊外に開かれた歴史ある茶屋街

石川県
金沢市
東山1





交通
JR北陸本線金沢駅下車徒歩





東山




1980
2003
2009.08.09
金沢は、戦国時代の尾山御坊(金沢御坊)を中心とした寺内町が起源である。天正8年(1580年)佐久間盛政が金沢御坊を攻略し金沢城を築いた。その後、前田利家が入城し、犀川と浅野川の間の小立野台地の先端に造られた城の周りに、150年余りに渡って繁栄する加賀藩百万石の城下町が形成された。
文政3年(1820年)に藩の許可のもと城下町の外側、浅野川の傍に東廓、犀川の傍に西廓が開かれた。その後、東廓に近接した浅野川沿いに主計町が、西廓に近接した犀川沿いに北廓がつくられ金沢には格式高い遊里が4ヶ所となった。

旧東廓は、現在「ひがし茶屋街」として重伝建地区に指定されおり、町割や江戸時代から明治初期にかけて建築された茶屋様式の町家が多く残されている。1980年に訪れたときには戦後改築あるいは改修された建物も多くみられた。電柱の地中化や石による舗装、古い様式に合わせた外装の変更など修景はほぼ完了している。
1980年のひがし茶屋街。この時代は「茶屋街」ではなく「廓」と呼ばれていた。「茶屋街」は芸妓の町だが、「廓」は遊郭のことで娼妓が居る。実際は芸妓、娼妓が同居する町だったようだが、後者は重伝建の紹介としてはふさわしくなく消されたのであろうか。

町の入り口あたりの通りが広くなっている。左の家並みは修景されていない。(左上)

路地の町並み。赤茶(弁柄)の外壁は修景のために改修されたもの。(左中)

特徴の一つ、透けた雨戸の戸袋(上)
重伝建地区は石畳になっているので、そこが東茶屋街(東廓)の範囲なのであろう。そこを外れると商店の看板も掲げてよい。
以前は修景されているほうが好ましいと思っていたが、最近はそうでないものが混ざっているほうに好感を持つ。要は混ざっているほうが、本物の古い建物のありがたみが伝わるように思う。
卯辰山の方(東方向)を眺めた中央の通りの景観(2009年)。上の1980年と見比べてほしい。
卯辰山を背にし西方向を眺めた中央の通りの景観(2009年)。
右手前の白い蔵の隣の建物は、「中屋」という、東廓が開かれた文政3年に建てられた茶屋建築。
格子は目の細かい木虫籠、腰は越前石、木部は弁柄仕上げ。
腰の石は越前石と思われる
こちらの腰石はピンク色。人造石かな?
参考資料 リンク
金沢市

参考文献