羽州紀行
<いらかぐみオフ会

 

町並みWeb集団「いらかぐみ」も結成3年目を向かえ、オフ会も第一回祝島(山口県)、第二回奈良井(長野県)に続いて第三回目となった。今年は「東北だ!」と言うことで即全員一致。東日本で唯一の私が幹事を務めることとなった。東北と言っても広うござんす、何処にしようか相談したらこれもアッサリ銀山温泉に決定。西日本の方々からは、やはりみちのくの山中に木造3階建の旅館が建ち並んでいる温泉街に対して興味津々のようである。
今回の私個人のテーマはというと今まで集中して歩いていない山形県と秋田県南部を歩くことである。今回で東北の集落町並みは各県で半数を歩いたことになる。

浦和ICから東北自動車道に乗ったのは夜中の3時過ぎ。利根川を渡るころ東の空が明るくなってきた。月が雲に隠れているのかなぁと思っていたら見る見る空が明るくなっていく。まだ4時前だというのに夜明けが始まっていたのだ。
大滝(福島県福島市)
福島飯坂ICを出たのは6時、ここから旧街道の宿場町を訪ねて米沢盆地へ抜けようと思う。会津磐梯山から連なる奥羽山脈の高原地帯を越えていく福島山形県境は人里の少ないエリアである。米沢街道のバイパスとして明治期に開削された万世大路は直後の鉄道敷設によって短い生命だったようで、峠の手前に設けられた大滝宿は現在は無人集落となっている。このような寂しい集落から羽州紀行の旅が始まった。
大滝宿の家は4,5軒しか残っていない。しかしきちっと管理されているようで、冬越えの為に土壁が藁で覆われていた。家々も廃村25年にしてはひどく朽ちてはいない。保存対象になるような集落ではないが、かつて宿場があった記憶を伝える場所として大切にしてほしいものだ。しかし、誰も居ないはずなのに蛇口から水が流れていて庭には犬が鎖で繋がれていた。

大滝からは旧米沢街道を伝って板谷峠越える。その前に奥羽本線に「峠」という名前の駅があるので立ち寄ってみた。現在の奥羽本線は山形新幹線として改造されているが、その最も大変だったのが板谷峠付近だったと言われている。旧峠駅はホームと線路だけが新線軌道からはずされて残っていた。駅前には一軒の商店がまだ営業していた。早朝の高原の駅跡は妙にさわやかである。旧ホームの上に立って向こう側を見下ろすと真新しい山形新幹線の軌道が走っていた。

板谷峠を越える県道には「冬季閉鎖」のゲートが閉まっていた。脇が開いているので地元の人が出入している。こういう場合は向こう側に抜けられるので大丈夫。板谷峠は高原状を越えていくのでいわゆる険しい印象が薄い。東北の奥羽山脈越えは得てしてこういう峠である。峠からは残雪のある西吾妻山や飯豊山地の山々が眺められ、新緑がとても美しい場所だった。
大沢(山形県米沢市)
板谷峠を下って旧米沢街道を往くと山形県側の峠下にある大沢宿である。茅葺屋根の民家がたくさん残っている集落だが高原上なのでいわゆる日本くささがない。大沢は東北の宿場町らしく民家一軒一軒の隣棟間隔がとられた配置で、軒の連なったいわゆる宿場町の景観ではなく農村系である。
集落の端っこに車を停め、集落の方々と「おはようございます」と挨拶を交わしながら歩く。曲り家が多く、主屋の置き方は様々。茅葺屋根の手入れは非常によく行き届いていて朝の光が反射し柔らかに輝いていた。
白布温泉(山形県米沢市)
山から米沢盆地へいったん下る。前方の飯豊山地が美しい。そして今度は吾妻山方向に上っていく。吾妻山の麓にある白布温泉はかつては白布高湯と呼ばれた東北では屈指の高所温泉。米沢の奥座敷のような場所で「東屋」「中屋」「西屋」の茅葺屋根の旅館が3棟並んでいた。しかし、記憶に新しい2000年に中屋旅館から出火し残念ながら東屋・中屋旅館は全焼してしまった。現在残るのは西屋旅館だけである。
山中の鄙びた温泉街をイメージしながら入っていくが予想に反して空の広い高原上の明るい町である。その中に大きな入母屋茅葺屋根の西屋旅館が姿を現した。東屋は新しい建物に再建されていたが中屋旅館は空地のままだった。燃える前に見たかったなぁ・・・。

芳泉町・南原(山形県米沢市)
再び米沢盆地へ下りる。前面に見下ろす盆地の景色は、まわりを残雪の山々に囲まれて田植えの時期の水田が広がる「これぞ東北」というものだ。米沢は城下町だが、下級武士を城下より離れた土地に住まわせ農地の開拓も行った。この郷士集落が米沢市街の南側に見られる。
芳泉町はかなり前に訪れたことがあったが、南原と通町を歩いていない。地形図と航空写真を見ながら直線的な郷士集落の通りを流して要所をチェックしていく。やはり芳泉町が良く残っているが、今回気に入ったのが通町の道の両側に4軒の茅葺民家が残っている一角。近世のものかどうかはわからないが、下級武士の住まいが計画的に造られたことが伺える町並みである。

米沢(山形県米沢市)
米沢の町は、芳泉町に来たときに米沢牛のすき焼きを食べたことがあるくらいで歩いたことは無い。戦災にも遭っていないようだし、城下町の古い町並みが見られるのではないかと思って訪れた。しかし、ここも予想に反して中心市街の道幅がどれも広い。その割りに沿道の町家は伝統的な様式で間違いなく戦前のものである。まさか都市計画でこれらの町家を曳家して街路を広げたのか?。このような不思議な町の例は、川越仲町が挙げられる。明治期の大火の後に道路を拡幅し蔵造りの商家が建ち並んだ。米沢は後で調べてわかったことだが(前もって調べておけばいいものを)、大火のあとに形成された町並みであった。

玉庭(山形県川西町)
米沢盆地の西にある川西町玉庭へ向う。玉庭は茅葺民家が多く残っているという情報を耳にして訪れた。集落はまとまっておらず、田園の中に民家が点々とある状態。とてもすべてを歩きで周るのは大変なので、車で動いては歩き動いては歩きの繰り返しで集落内をほぼ一周した。確かに茅葺率は高く、寄棟に切妻の中門がくっついた形態の民家がたくさん残っている。中門造といってもくっついた部分が長いものもある。茅葺の柔らかさと新緑の緑、背景に残雪を抱いた飯豊山地、そしてすべてを映し込む水田。風景の美しい茅葺民家集落としては一級のレベルといっていい。
長井(山形県長井市)
米沢の北西、最上川の舟運で栄えた町、長井を訪れる。この町は何かと通り過ぎることは多かったが歩いたことは無かった。事前の航空写真により下調べでは、南北に長い町の北と南の端に町並みがありそうだと予測をつけていた。その予測はバッチリ正解。しかし、車を停める場所が一箇所しかなかったので結局は北から南まですべてを歩くはめとなってしまった。
南の端である「あら町」には古い町家が、北の端には茅葺の町家が連続する町並みを形成していた。そして、両者の中間には近代洋風建築も見られる。最上川舟運で栄えた長井の町は、近代の色濃いクラッシックとモダンをあわせもつ町である。

白石(福島県白石市)
さて、今日の単独行動はこれでおしまい。1時間半で「いらかぐみ」の西山さんと孫右衛門さんの待つ宮城県白石に着かねばならない。最初は楽勝だと高をくくっていたら山形市へ抜ける小滝街道は一車線でトラックに引っかかって1時間10分を費やしてしまった。しょうがないので山形自動車道をここに記載できないようなスピードで飛ばし、待ち合わせ場所の白石駅になんとか10分遅れで到着した。あ〜しんど。
駅前ではお二人が待っていて久しぶりの再会である。それぞれすさまじいコースを辿ってこの地に来ている。土産話は今晩宿泊する銀山温泉へ持っていくことにし、まずは白石の町を歩いた。

村田(宮城県村田町)
西日本を拠点とする方々が多い「いらかぐみ」メンバーにとって、今回人気が高かったのが銀山温泉と村田である。村田は紅花商で財を成して建てた立派な蔵造りが連続する町並み。店蔵が並ぶという町並みは関東以北に多く、東北ではさらに装飾性が強くなっていく。その中でも村田は随一といっていいほど濃厚である。いつも洗練された西日本の町並みを見ている「いらかぐみ」の面々としてかなりの刺激物であったようだ。
村田を後にし3人を乗せたわが車は銀山温泉を目指すが、山形経由で行けばよいものを古川経由を選んでしまった。古川〜尾花沢の母袋街道は記憶と違って険しい峠道。景色は最高だが時間がかかってしまった。

銀山温泉(山形県尾花沢市)
母袋街道の銅越峠を越えて尾花沢の盆地に下る。銀山温泉に到着した時間は18:30であった。だが、町にはちょうど明かりが灯り始めた頃で美しい銀山温泉の夕景がわれわれを迎えてくれた。
銀山温泉では「いらかぐみ」Kさんとも合流して、風呂と食事を済ませたあとミーティング大会。それぞれが味わった東北の町並み話に花が咲いた。
翌朝は朝飯前の町並み散策。人っ気の無いうちに銀山温泉を歩いた。そして軽く汗を流して温泉旅館の朝ごはんをいただく。これがまたいい。

上五十沢(山形県村上市)
銀山温泉を発った2台の車は、国道13号線で手を振りながら別れる。Kさんは村田へと向った。国道13号線から5分ほど入った上五十沢は村山市ながら尾花沢市からしか車でいけない集落。それほど僻地でもないのに茅葺民家が多く残っていた。寄棟+切妻の直家や曲家あるいは中門造など様々な形態が混在する。時代の違いや養蚕による改造が理由なのだろうか。
大石田で西山さん孫右衛門さんと別れ、また一人旅に戻る。
山形県北部では、真室川町安楽城周辺や新庄を探ったが、単体レベルではいい民家があるものの町並みや集落レベルで特筆すべきものではなかった。止む無し、リストから削除だ。
金山(山形県金山町)
山形県最後の町並みは金山(かねやま)。国道13号線羽州街道の山形秋田国境手前の町である。その名の通り銀山があったことから付けられた町名である。町並みはL字状になっており、七日町筋、十日町筋に明治から大正期に建てられた切妻妻入の町家と土蔵が並ぶ。かなり製材業で潤ったのであろうか、蔵の大きさは立派なもので主屋のスケールに迫っており、町並みを個性的なものにしている重要な要素となっている。
金山宿のゲートにあたる金山川の橋には歩行者専用の新しい木製の橋が架かっていたり、景観整備にかなり力を入れている町だと感じた。
院内(秋田県湯沢市(旧雄勝町))
国境にあたる雄勝峠を越えて秋田県に入る。峠下の院内は古くは日本3大銀山のひとつと言われた鉱山があった。鉱山は昭和28年に閉山され、それまで鉱山都市が存在していた。史跡の説明板にかつての俯瞰写真があった。その規模たるや並みの大きさではない。しかし、現在はもちろん人家は無く、森の中に神社と墓地と洋館建物の石垣などが残っているだけである。まさに、「兵どもの夢の跡」である。
院内の現在の町は鉱山から離れた国道13号線沿いにある。無くなった旧院内鉱山町から移り住んだ人々も居られるのであろうか。

湯沢(秋田県湯沢市)
院内からさらに北へ走る。横堀(雄勝町)は町並みがあるかもしれないと予測していたがハズレ。今日はよくハズレる日だ。
国道13号線から旧道に分岐し、湯沢の町に入る。南北に長い湯沢市街をまず流しながら町並みをチェック。湯沢ではあらかじめ調査していた予測が当たって、市街の北と南の中心市街から離れた場所に古い町並みが残っていた。湯沢は酒どころなので結構造り酒屋が多く、町並みの主役となっている。
市街地北部は有名な両関酒造による町並み。工場が2ヵ所あってそれぞれに大きな町家建てが通りに面してあり背後にでっかい蔵が連なる。市街地南部は両関までの規模ではないが酒屋を中心に通りを挟んだ伝統的な町並みが見らた。国道ではないが交通量が多い通りなのでちょっと騒がしい。
 

今回のオフ会を交えた羽州紀行で予定していた集落町並みはこれで終了。天気も怪しくなってきたし明日は月曜日なので早めに帰ろう。銀山温泉のミーティングでコースを全く逆に取ったKさんが、「秋田県の泥湯温泉から湯沢方面に向う際にインパクトのある民家があった。先を急いでいて写真が撮れず残念なことをした。」とおっしゃっていたので帰り道に寄ってみることにした。見過ごさないように注意して走っていたら遠くに変わった屋根の民家が見えてきた。そして近づくにしたがって、この民家がKさんが言っていた民家であることを確信した。茅葺屋根を覆うようにトタンが細やかにしかもカラフルに貼られている。持ち主はただ雨漏りを直すつもりでその場しのぎでトタンを貼っていったのであろうが、それが実によく生きられた家としての風情を醸している。

奥羽山脈を4度越えて古川インターから東北自動車道に乗った。自宅に着いてパソコンを立ち上げると「いらかぐみ」の面々から無事帰宅の書き込みがされていた。
5月下旬の東北は、何処を訪ねても背景に残雪の山、前景に水を張った水田、そして眩いほど鮮やかな新緑という素晴らしい景色だった。目を瞑ると思い出される。しばらくその余韻に浸っていたいものだ。