遊里を歩く
第2話 東京 城南編
 東京城南は、田園調布や洗足をはじめとする東急沿線の高級住宅街のイメージがある。ところがそれらは丘の上のことで、東京湾に注ぐ川沿いの低地は工業地域であった。両者の間に形成された商業地は、表こそ買物のお店が並んでいるが、裏には男たちの遊び場があった。また、都心部にはビジネスの接待場としての花柳界も、やはり低地の水のある場所に形成されていた。
 

 
目黒川沿いの旧工業地域を歩く
下目黒
 城南の遊里巡りは、私の住んでいる街「下目黒」から始める。JR山手線目黒駅西口を出て、目黒通り駅前交差点を渡り、最近完成した超高層マンションの脇の道を進むと、行人坂という下りの急坂に差し掛かる。冬の天気の良い日にはここからビルの屋根越しに富士山が望めるほどの急坂だ。以前、江戸の坂の高低差を調べたことがあったが、行人坂はトップクラスだった。坂の下には有名な結婚式場「目黒雅叙園」がある。時折坂の上で「目黒雅叙園はこの先ですか?」と尋ねられることがあるが、こんな急坂を下りてから間違いだとわかったのではたまらないと思うからであろう。目黒雅叙園は目黒川沿いの起伏のある敷地に昭和6年に開業した料亭(和・中)で、日本初の総合結婚式場でもあった。創設者は細川力蔵という人物。氏はこのページの最後にも再登場するので、右のデコラティブな和風意匠の玄関とともに覚えておいていただきたい。
 さて、バブル期に建て替えられた高層オフィスビルとホテルを併設した目黒雅叙園。面する目黒川は桜の名所となっていて、時期になるとびっくりするほど多くの人が訪れる。太鼓橋を渡って山手通りを越えると目黒の地名の由来ともなっている目黒不動尊。お不動さん(龍泉寺)は江戸時代から多くの参拝者でにぎわった観光地でもあった。落語「目黒のさんま」の舞台になった茶屋もこの近辺にあったという。
 人の集まる場所に遊び場あり。お不動さんの前にも花柳界があった。以前から門前にあった茶店や料理屋が起源で関東大震災後に盛んになり、昭和初年に芸妓置屋35軒、料亭40軒の二業地だったという。門前にあった料亭「角伊勢」の敷地は現在駐車場になっており、芸妓と武士が心中したという伝説のある塚が祭られている。
 残念ながら門前町には歴史的な風情は感じられないが、お不動さんの裏には古民家や古い銭湯がある。そして、道幅の広い目黒通りに出ると、出桁造りの町家が残っている。目黒通りは現在、周辺の高級住宅地を控えた家具屋さんの並ぶ通りで、古い町家も家具店になっている。

 
目黒雅叙園全景(昭和15年ころ)
行人坂下の広大な敷地に昭和6年に開業した料亭。国内初の総合結婚式場でもある。左下の橋が太鼓橋で、目黒不動へ続く江戸時代から参拝客でにぎわった道が通る。

旧目黒雅叙園の建築
昭和初期に建築された建物は、絢爛たる装飾が施されていた。建て替えられた雅叙園の館内にも旧建物の内装が保存されている。

目黒川の桜並木
目黒川の桜並木は年々有名になり、開花時期には多くの見物客でにぎわう。川沿いに住む人間(私)にとってはやや迷惑。有名な町並に住んでいる人たちの気持ちがわかる。

目黒不動裏にある銭湯
目黒不動の門前には古い建物は残っていない。どちらかというと裏手にある。特に目黒通り沿いには出桁造りの民家が残っている。
五反田
 
 下目黒から目黒川を下ると品川区西五反田。目黒川の低地を挟んだ坂の上は、「島津山」「池田山」「御殿山」「桐ケ谷」などと呼ばれる高級住宅街で、美智子皇后の実家(現在は公園)は池田山にあった。一方、坂の下の目黒川沿いには工場が多く、山手線五反田駅周辺に商店街や歓楽街が発達した。中でも星製薬の大規模な製薬工場があったことで知られ、その敷地は現在TOCになっている。
 五反田の花街は大正12年に指定地の許可を受けて発足した。北区の尾久とともに、関東大震災前に急激な発展をみせた花街といわれる。昭和初年に芸妓置屋58軒、芸妓228人、料亭25軒、待合45軒があり、昭和40年ころまで料亭が並んでいたそうだ。周辺の企業や目黒川沿いの工場を背景に発展したのだろう。かつての面影は、目黒川のほとりにある一軒の旅館の存在にのみ偲ぶことができる。一方、駅の北側には今でも夜の賑わいを見せている五反田有楽街がある。

 

目黒川沿いにある料亭旅館

料亭旅館の玄関
看板があるが営業されているかどうかはわからないほど建物が傷んでいる。
西小山
 
 目黒と田園調布を結ぶ目黒線は、地下鉄が乗り入れる前は目蒲線とよばれ、目黒蒲田間を走っていた。東京急行(東急)の中でも一番古い路線である。それは渋沢栄一がイギリスの住宅地をモデルにした「田園都市構想」に始まる。渋沢は大正7年に会社を興し、小山八幡神社のある高台(西小山)を住宅地として開発した。その後、洗足や田園調布などの住宅地が誕生。それらの町を通って山手線目黒駅、京浜東北線蒲田駅をとを結ぶために誕生したのが目蒲線であった。
 西小山駅もつい最近地中化されすっきりしたが、駅前商店街のゴチャゴチャ感は健在である。駅から目蒲線に沿って目黒方向に歩いて行くと踏切がある。ここは、立会川を暗渠化してできた道路で、踏切の東側には立会川沿いに形成された花街があった。昭和40年ころ、料亭15軒、芸者40人ほどだったそうだ。現在の立会川道路には痕跡は見られないが、路地の一角にそれらしき佇まいの住宅が2軒あった。

 

西小山の花街があった立会川沿い
駅から離れた場違いな場所にスナックがある。こういう場合は旧遊里だったかなと疑うべし。

立会川沿いには花街の面影はなかったが、すぐそばの住宅の玄関に面影が残っていた。
東品川

 目黒川は大崎の工場街を抜け第一京浜(国道15号)を横切り、東品川で天王洲南運河に注いでいる。目黒川河口はかつては旧東海道品川宿の東側で流れを北へ変え東京湾側に砂州を形成していた。現在の八ツ山通りが旧目黒川の跡である。明治時代、東京(新橋)・横浜間に鉄道が敷設される際、八ツ山を切り崩して鉄道を通し、目黒川の流れを変えて旧河口を埋め立てた。
 品川は云わずと知れた旧東海道の宿場町。その一部に遊郭があったが、昭和7年に海岸の埋め立て地に移転し、宿場町から独立した。旧品川宿から坂道を下って八ツ山通りを渡る。ここには今でも船溜まりがあって屋形船や釣り船が停められている。水際に古い町並みを見つけたので行ってみるとびっくり(北品川一丁目)。品川東口の高層ビル群の眼下にこのような古い住宅街があったとは。しかし、今にも取り壊されそうだ。
 一方、八ツ山通りを渡ると、目黒川の河口に形成された砂州の上の旧漁村だった町で弁財天がある。台場小学校は江戸時代につくられた御殿山下御台場の跡地。その台場小学校から東京湾側が埋め立て地の東品川一丁目で、品川宿から移転された旧遊郭のあった場所である。全体に面影があまり感じられないものの、一部に建物が残っている。

 

八ツ山通り沿いの船溜から品川グランドコモンズの高層ビル群を眺める、足元にはびっくりするような木造の戦前の町並みが残る。

東品川1丁目の町並み。面影を残す建物がわずかに残っている。
多摩川沿いの遊里を歩く
二子新地

 多摩川沿いは昔は東京郊外のレジャーランドだった。東から多摩川園(東横線多摩川駅前)、二子玉川園(田園都市線二子玉川園駅)、向ヶ丘遊園地(小田急線向ヶ丘遊園駅)、京王遊園地(京王相模原線京王多摩川駅)など。その中の一つ、二子玉川から旧大山街道二子橋を渡った二子新地に花柳界があった。この花街は、関東大震災の後できたもので、昭和初年で芸妓置屋35軒、料亭40軒の二業地だったという。
 田園都市線二子新地駅で降り、商店街を歩くと旧大山街道との交差点に至る。商店街はさらに先に延びていて二子神社脇で終わる。モルタル吹付けの看板建築の飲み屋さんが並ぶ所に「二子三業地」の看板が数年前まであった(現在はなし)。二子神社の前を通って裏手に回ると木造2階建ての料亭が今でも営業を続けている。
 一方、旧大山街道は国道246号線の旧道で、二子橋から武蔵溝ノ口駅にかけて旧街道の面影を残している。

 

二子新地駅から二子神社まで商店街が続く。画像の場所は二子神社前のところで、かつて「二子三業地」の看板があった。

二子神社の裏手にあった木造2階建ての料亭。今でも営業している。
武蔵新田

 田園調布から東急多摩川線(旧目蒲線)で4つ目、武蔵新田駅にも遊里があった。田園調布や久が原・池上といった高級住宅街の近くなのに不似合いに思われるかもしれない。しかし、東急多摩川線と多摩川の間は工業地域であり、工場門前町でもあった。商店街の裏手には戦後カフェー街がつくられた。洲崎から羽田穴森に移転していた業者が、空港建設でさらにこの武蔵新田に昭和20年に移ってきたのがカフェー街の始まり。3棟のアパートが活用されて三十数軒の業者が入り、百人の女性がいたという。昭和33年の売春防止法施行以降は廃業された。
 武蔵新田駅前から多摩川の工場へ向かう商店街は私鉄沿線の工場地帯によく見られる昭和の町並み。駅近くには和風の銭湯も残っている。旧カフェー街は大型スーパーの裏手になっていて非常にわかりづらい位置にあった。目印はモルタル吹付けの外装の足もとに石板が貼られている一軒の建物。当時の建物はこれともう一軒だけのようだ。

 

カフェーはアパートを改装した建物だった。いまや2棟が残っているにすぎない。
京浜国道沿いの遊里を歩く
蒲田

 東急多摩川線(旧目蒲線)終点は蒲田駅。JR京浜東北線と接続している。駅の周りは繁華街があって、現代の遊里となっている。昭和初年にできた蒲田の花柳界というのは、ずっとこのJR蒲田駅周辺だと思い込んでいた。しかし、「赤線跡を歩く2」によれば京急蒲田そばの柳通りだったという(この文献でも断定されていない)。JR蒲田駅から京急蒲田駅へは遠く、数百メートル歩かなければならない。京急蒲田駅からまっすぐに西に延びているアーケード商店街と新呑川との間が柳通り(飲食店街)である。何のことはない、ここは昨年、高松出張の帰りに途中下車してよく飲んでいた街だった。
 柳通りは戦後のモルタル吹付外壁の2階建ての店が密集する地区。戦災に遭っているのであろうか、昭和初期の花柳界があったという和のイメージはない。それでも、スナックや小料理屋があるので、花街から変化した町だと思えなくもない。城南の遊里は、川沿いに形成されているケースが多いが、蒲田柳通りもその一つである。

 

戦災に遭っているのか、花柳会という和のイメージは全くない。
大井

 蒲田から真っ赤な京浜急行に乗って、沿線の遊里を訪ねてみよう。京浜急行はほぼ旧東海道に沿って走っており、東京横浜間の古い町、京浜工業地帯の西側を走っている。したがって遊里も多く存在した。
 大森海岸駅の西側は平坦で整然と区画された低中層の住宅地で、ここがかつての大井花街だったところ。最近まで1軒だけ戸建ての料亭があったそうだが、訪れた時には既に姿を消していた。昭和41年当時で料亭25軒あり、芸者80人いたそうだ。広い通りに整形の街区という街は、あたかも戦後区画整理された住宅地のように見える。もしそうであれば、便利のいい場所なので同時代のマンションや戸建て住宅がもう少しわかりやすく建っていていい。ところが、マンションの一階に居酒屋やスナックが入居していたり、ポツンとソープランドがあったりする。遊里の歴史は終わろうとも地霊は宿っているのだ。

 

マンションの1階に入居しているスナックや居酒屋が多い。

旧遊里の生き証人、ソープランドがポツンと営業していた。
大森

 大森は昭和初期までは「浅草海苔」の名産地であったが、埋め立てと海水の汚染で採れなくなった。近代以降は工業地帯として開発され、現在は住宅地と工場、さらに点在する商店街が混在するという、範囲の広いまちである。
 京浜急行平和島駅下車、交通量の多い第一京浜国道を横断し横浜方面へ進む。旧東海道は国道から分岐し騒々しさから逃れると大森本町の商店街である。商店街には旧街道をしのぶ町並みはまったく見られない。しかし、環状7号線との交差点の北東エリアに、かつて「大森新地」といわれた遊郭跡があり、往年の料亭建築が結構残っている。昭和40年代で、料亭が40軒、芸者が60人ほどいたそうだ。
 旧東海道である商店街を下り環状7号線を渡ってしばらく進むと「内川橋」がある。橋の南側から羽田へ通じる「羽田道」が分岐している。この分岐点に「駿河屋」という旅籠があったことから羽田道は「するがや通り」とも呼ばれていた。羽田道を下ってみると、いくつもの商店街や住宅街、町工場街を抜けながら羽田の集落へいたっている。途中、大森東4丁目の厳島神社付近に戦前の建物がかたまって残っている一角があった。

 

旧大森新地の町並み

川の跡のような緑道に面する料亭建築
都心部城南の花街を歩く
赤坂

 一転して東京都心部の城南に場を移そう。赤坂は、明治11年に発足した東京府15区の一つで、麻布、芝と合併した後港区となった。ここも例外にもれず、丘の上が高級住宅街で、丘の下が歓楽街という町の構成である。現在の赤坂見附駅周辺は飲食店がひしめきあう東京を代表する夜の街で、その町を溜池方面に歩いて行くと賑わいが静まるとともに、料亭が並ぶようになる。赤坂の花柳界は、場所がら、明治期以降官吏、軍人、政財界の接待の場となり発展した。昭和三十年頃で、芸妓300人、料亭80件あったというからかなりの規模だったろう。戸建ての料亭は次第に建て替わってビルにビルトインされた店になりつつある。時代の流れからするとしょうがないが、建て混んだビルの間に一軒家の料亭が存在しているところに赤坂のステイタスがあるのではないだろうか。

 赤坂の南、麻布十番にも花街はあった。最近まで料亭建築があったが数年前に建て替えられてしまった。かろうじて写真に残しているが、当時は花街の存在を知らずして撮影したものであり、きちんと歩いておくんだったと今になって後悔している。

 

日枝神社の前から溜池側が料亭の並ぶ街並みとなる。

ひしめき合う飲食店ビルの狭間に建っている大型の一軒家料亭。すでに隣は空き地に。


 芝は旧東海道の西側、新橋と高輪の間の地域で江戸旧市街の南限であった。増上寺の大門の近く、芝大神宮の門前町に江戸期以来の花柳界がある。佇まいがしっかり残っているのは現役の花街である証しであろうか、一角だけだが一本の通りの景観は貴重なものである。
 
芝浦

 芝大門をくぐって浜松町の方に向かう。浜松町の駅の界隈も戦災から免れたエリアで、ポツポツと戦前の建物が残っている。代表的なのが駅前の渡邉ビル。古川の河口の舟溜を横目に田町方向へ歩き、海岸通りに出たらJR線をくぐる。そこは古い埋め立て地の芝浦である。いまや外車ディーラーヤナセのショールームが並んでいるが、交差点の向い側には木造家屋が建ち並んでいる。そこを入っていくと新しいマンションの真ん前にネットに覆われたお化け屋敷のようなでかい和風建築が現れる。この建物は「協働会館」という東京都所有の港湾労働者の宿泊施設だったもの。しかし、単なる宿泊施設ではないことは遊里歩きをされている方ならすぐわかるであろう。この建物こそ、戦前の芝浦花街の検番所なのだ。
 この建物は、当時の芝浦花街の三業組合長だった細川力蔵氏が昭和11年に建てたもの。そう、目黒雅叙園を建てた彼である。彼は目黒の土地を購入する前、芝浦に同じ雅叙園という名の純日本式料亭を開いていた。その後、目黒に店を移し、芝浦には花街にすべく検番所を建てたのである。戦中に花柳界が疎開した以降は港湾労働者の宿泊所として使われていた。以前は、この両隣の駐車場に木造の建物がずらっと並んでいたというから(「赤線跡を歩く2」P.199参照)、それはそれは壮観だったであろう。今では、この旧検番所のほか2棟ばかりが残っている。
 芝浦には運河が縦横に通じ、倉庫や工場が立地している。1980年代のバブル経済の時代に運河沿いの倉庫が商業施設に改修されたりして注目された。中でもバブル崩壊直後に一世を風靡した大型ディスコ「ジュリアナ東京」は旧芝浦花柳界に接した場所だった。
時代は違うが、踊る女性のもとに集まる男性という構図は変わっていないということか。戦前の花街も世紀末のディスコも今は昔。芝浦は、超高層マンションが林立する都心居住の街として生まれ変わりつつある。

海岸通りのヤナセショールームの向い側の町並み。旧芝浦花街の名残である。

旧花街時代の建物としては3棟残っている。そのうちの一つ。

芝浦花柳界の検番所だった建物は、保存運動のほとぼりが覚めるのを待っているのであろうか。それとも文化財となって後世に伝えられるのであろうか。
 
 第3話東京城東編につづく