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 編集後記

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編集後記(2014.08.30)

 2013/8/4を最後に約1年間サイト更新をお休みしておりました。理由は、仕事関係の書籍を執筆していたからです。それもようやく書きあがり、2014/7/24に発売となりました。
  「生まれ変わる歴史的建造物」 
野村和宣著

(日刊工業新聞社)
 
 私は本業では建築設計をしていますが、中でも歴史的建造物の歴史継承を伴う都市再生のプロジェクトを数々手がけております。いままで、趣味である集落町並み探訪家=野村万訪と、本業=野村和宣とを分けて活動してまいりましたが、昨今歴史を継ぐことが都市再生の中で重要視されてきていることを背景に、そろそろ融合していくべきではないかと思っております。本を執筆したこともそのきっかけですし、自分自身そのことを再認識する作業でもありました。
 専門書ではありますが、一般の方でもわかりやすく興味を持っていただけるように配慮して書いたつもりです。是非、読んでいただけると幸いです。丸善や紀伊国屋、amazonなど通販で手に入ります。

 そして、執筆も終わりましたので、徐々に集落町並み探訪を再開しようと思います。まずは、溜りにたまったデータベースの更新から。本格再開は、2015/4からになるでしょう。



編集後記(2011.03.13)

 3/11午後2時46分頃、戦後最も甚大な災害が発生しました。その時間私は、東京渋谷区の地下鉄日比谷線恵比寿駅構内にいました。駅の放送で「ただ今地震発生のため運行をストップしました」と流れた数秒後、地下だというのにとんでもなく揺れ始めました。ホームから地上に向かって大勢の人がものすごい勢いで階段を駆け上がってきた。その後ずいぶん長く揺れていたように思います。揺れがおさまり地上に出ました。余震はまだ幾度も繰り返しやってきて、周りのビルのガラスや看板の揺れているのがわかりました。鉄道は止まり、電話もまったく通じない。私は家にいる娘を案じて、歩いて品川の実家に向かいました。マンションにたどり着いたけどエレベーターは止まっていて、階段を歩いて23階まで上りました。やっと家に着くと、娘は机の下でうずくまって半べそをかいていた。そして、テレビでこの地震によって関東以北がとんでもないことになっていることを知りました。

 福島県から青森県までの太平洋岸では、大津波で根こそぎ町が飲み込まれました。その後、長野県栄村でも大地震が起こりました。ニュースでは、津波に飲み込まれ、町が無くなる映像を何度も何度も見ました。水が引き、ようやく救助活動ができるようになるにつれて助かる人、助からなかった人、被害の全貌が明らかになってきた。三陸海岸の宮古には私の親友が住んでいますが、連絡は当然とることができません。何とか無事に避難していることを祈ります。そして、被災地で一人でも多くの方々に助かってほしいと願います。

 以下は、テレビ報道等で被害のあった町や集落の私が歩いた時の記録です。報道されていなくても海の近くであったことから明らかに被害を受けている場所も他に多数あるでしょう。私の訪問を受け入れてくれたことを心から感謝いたします。そして、何年かかるかわかりませんが、必ずや復興してもらいたい。心から応援いたします。

 福島県 久野浜
 宮城県 塩釜 石巻 志津川 気仙沼 
 岩手県 釜石 山田 宮古 田老
 青森県 八戸
 

大津波で失われた岩手県宮古市鍬ケ崎の町並み
 

編集後記(2008.03.30)

 ちょうどこのサイトを始めた5年前から、色街系を歩くようになりました。現在追いかけているジャンルの中でも最も精力的だったかもしれません。全国レベルでもかなり溜まってきたので、ここいらで探訪シリーズとしてまとめようと思います。
「天界の村」が関東を最後にしたので、「遊里を歩く」では本拠地東京からスタートすべしと、東京都内の遊里の未訪地取材を開始しました。そうしたら、なんと都内だけで50か所以上!とんでもないことに・・・。さーてどうやってまとめようかと悩みましたが、オーソドックスに地域ごとにしました。いきなり細部から入っていく感じになっちゃいますが、後になって地方のユニークなものが出てきますので、だんだんじわーっと伝わればいいかなと。そして、最後にコテコテの大阪で締めようと思います。
 また、「戦災のない町を歩く」もパラレルで進める予定です。戦災を受けた都市の戦災免れた町を歩くという企画です。こちらは大阪から開始し東京で締めくくりましょうか。「遊里」と「戦災のない町」が不思議に重なる、そんなところにもご注目ください。

戦災を受けた東京八王子市街の中で戦災を免れた旧田町遊郭
 

編集後記(2007.12.02)

日本の山岳集落の探訪は、私が集落町並みを歩くきっかけとなった長野県上村下栗集落との出会い(1986年)に始まりました。その後、山岳集落が中央構造線に沿った西南日本外帯山地に分布していることを知り、続けて紀伊山地、四国山地、九州山地と訪ねました。さらに、中央構造線を東へ逆行して関東山地にも存在することを知りました。1986年以降の山岳集落探訪の歴史は以下の通りです。

  長野県遠山郷     1986年 2000年 2004年
  静岡県水窪町周辺  2000年 2004年
  紀伊山地        1994年
  四国山地東部     1988年 1995年 2007年
  四国山地西部     2007年
  九州山地        1995年 2003年
  関東山地        1995年 2006年 2007年

もっと早く終わっていて良いものでしょうが、その間いろんな分野に興味が拡大してしまったため、原点である山岳集落探訪に20年もかかってしまった。今年、ついに完結させようと心に決めて、春に四国山地西部の探訪と東部再訪を行い、この秋に地元関東山地を歩くことができました。関東山地では、以前から知っていた奥秩父だけであろうと思っていましたが、地形図をしらみつぶしに探してみたら群馬県下仁田町から東京都奥多摩町にかけて他にもあるわあるわ。そして訪れてみると予想を上回る天界度の集落が目白押し。特に東京都奥多摩町峰ノ谷の峰・奥集落には驚かされました。まさに灯台下暗し、地元東京に第一級の天界の村があったとはビックリです。まだまだ修行が足りませんね。

関東山地で「天界の村を歩く」シリーズはおしまいですが、長い間貯めていた宿題をやっとやり終えることができてホッとしています。ちなみに、全6話に掲載した画像には20年間に撮影したものからピックアップしています。そこには、私の集落町並み探訪家としての歴史そのものが詰まっている。そういった意味で、最終話のムービーはかなりこだわって製作しました。最初のシーンは、夜明け前にカメラをセットし、日が昇るまで1時間かけて撮ったものなんですよ。

さーて、次なる企画はどうしようかな。今度は都市の町並み系をやろうと思っています。乞うご期待を!!
 

東京都にも天界の村があった!!  奥多摩町奥集落



今年のお盆休みは完全に家の中。そのおかげで今まで溜まっていたDataBaseと印象記を全てアップしスッキリしました。そして明日から会社。仕事の宿題をこの休み中にやろうと思い、持って帰ったものの全然やる気がしないで現在に至っています。夏休みの宿題をやっていないで8/31になっちゃったみたいなものです。まぁ、明日会社でやればいいや。

最新の印象記に書いたとおり、事情あって当分本格的な探訪が出来なくなってしまいました。「そんな耐えられない」と言いたいところではありますが、事情が事情なものですからそんな気持ちにはなりません。でも、ここで今まで訪ねたDataを整理しながら、じっくり日本の集落町並みを思い返してみるのもいい機会なのかもしれません。
先日、臨海副都心へ行く用事があり2年ぶりに訪れました。そうしたらビルがさらに建ち並び、晴海通りは延伸して東雲までつながっているし、海の博物館のあたりから先の埠頭へ向かって新しい海底トンネルが出来ている。豊海はららぽーとが出来て町の姿がすっかり変わってしまっているし、新交通ゆりかもめも豊洲まで延伸した、などなど。臨海副都心の変貌の早さに驚かされたとともに、非常に美しい臨海都市が完成しつつあることに感動を覚えました。東京はいま美しくなりつつあります。灯台下暗しではいけない。わが町東京を改めて見直さなければなりませんね。
 

東京臨海副地心のビルから都心部の夜景を見る



 編集後記(2007.02.10)

2年9ヶ月ぶりの編集後記です。前回の編集後記が「中山道69次」を終えた頃でしたので、この後、「DataBaseでリストアップした集落町並みの各県で50%を歩こう」と志したわけです。これは単に自己満足の世界だといわれればそれまでですが、馬鹿馬鹿しいことでも何らかの目標を立ててそれに向かって突き進むのは嫌いなほうではないようです。実際、志してから達成までは2年半もかかりましたし、再訪も含めて315ヵ所の集落町並みを歩かなければなりませんでした。その道のりは、楽しいけれどもたやすいものではありませんでした。丹念に分割して訪ねた愛知県や兵庫県、多くが集中していて何度も訪れた北部九州、ほぼ一から再訪しなおした四国や山陰、そして数が多く手こずった岡山県と広島県、などなどいろんな集落町並みが思い出されます。少々急ぎ足ではありましたが、これで日本全国を一通り歩いたといえるでしょう。しかし、北海道の根室周辺や夕張周辺の炭鉱町、伊豆諸島、白山周辺の山村、紀伊半島海岸部、淡路島や小豆島をはじめとする瀬戸内の島々、四国西部の山間部、隠岐、五島列島、南西諸島などなど、まだまだ行かなきゃならない地域は山積みです。東京都内の奥多摩の山村さえ未訪なのですから。
しかし、ここいらで一度区切りを付けたいと思います。当サイトもいつまでも未完成のままとはいきませんし、探訪シリーズも続いていない。これからは探訪シリーズを中心にテーマで歩いていきたいと思います。たとえば、天界の村や企業城下町などを考えています。ただ、気が変わりやすい性格ですのでどうなりますか・・・。
今後とも集落町並みWalkerをお引き立てのほど、よろしく!!
 

今年最初に歩いた札幌
 


編集後記(2004.05.22)

集落町並み行脚の足として使用してきた車は、現在まで6台乗り継いできました。
トヨタカローラレビン → スズキジムニー → トヨタMR2 → 三菱ジープ → 
スバルレガシーワゴン → スバルインプレッサ
中で最も長く乗り続けていた愛車「スバルインプレッサ」をついに手放すこととになってしまいました。WRC世界チャンピオンになった平成8年式インプレッサの競技ベース車両をとことん改造したこの車は、走行性能は抜群で小回りも効き、目的地間の移動時間短縮と集落内走行には大いに役立ちました。ただ、スピード違反でも多いにつかまったのですが・・・。しかし、乗り心地は悪く室内も狭い。行脚に同行する家族にしてみれば、つまらない集落町並み見せられた挙句に移動中も苦痛を強いられるわけで、不満がでないわけがありません。いままで「旅ってそうゆうもんだ」と文句も言わずに乗っていた娘ですが、そろそろ「集落には行きたくない」と言い出しました。「走り」にこだわるがために集落行脚に行けなくなってしまっては本末転倒。ここは「走り」から「快適性」に方向転換するほうが得策であると判断。「超ラグジュアリー」をテーマに「日産エルグランド」に買い変えました。
思えばインプレッサではいろんなところへ行きました。北は北海道の留萌から、南は九州大分県の臼杵まで。中でも、今年正月の北九州紀行は、片道1200kmを高速走行で往復し、全走行距離で3500kmという車にとっても過酷な旅でしたがよく走ってくれました。少なくとも300箇所はこの車で行ったのではないでしょうか。訪れた集落を思い出すとがんばって走ってくれた車たちのことも思い出されます。
さて、「超ラグジュアリー・エルグランド」。どんな思い出を作ってくれるのか楽しみです。



「走り」を追求したインプレッサ改

「超ラグジュアリー」を目指すエルグランド



編集後記(2003.11.29)

今年もあと1ヶ月そこらとなりました。毎週のように殺人のニュースがテレビから流れる。しかも親が子を殺したり、子が親を殺したり。都会の歪と思いきや田舎町だったりする。いったい世の中どうなっちゃったんだろうと思いますね。イラクはまだくすぶっているし、マイケルジャクソンが逮捕されたり、地銀がまた破綻したり。世の中、相変わらず明るくないです。
しかし、私はひたすら全国を歩き回った一年でした。北は北海道から南は鹿児島まで、今年はとにかく精力的に歩いた一年でした。例年訪れる集落や町並みの数は50ヶ所から80ヶ所程度ですが、今年は再訪も入れてなんと259ヶ所(11月末時点)。気が付いたらという感じです。
今日、data baseのリストを一日かけてすっきり更新しました。新刊の町並み文献やサイトの最新情報をすべて盛り込みました。リストアップ総数が2408ヶ所。
40歳までに1000ヶ所というのを目標に歩いているのですが、一方で写真がない場所をすべて取除いて整理した結果、現時点で掲載箇所は944ヶ所となってしまいました。あと2ヶ月半で1000ヶ所到達は難しいようです。「もっとじっくり巡ったらいいのでは」と思われている方もおられるとは思います。私も本当はそうしたいのですが、古い町並みはどんどん無くなっている。となれば、駆け足でも訪れなくてはならないのです。そのためにも、掲載箇所ゼロの佐賀県や少ない福岡県、大分県をなんとかしなければ。
 
集落MAP



編集後記(2003.06.29.)

表紙の建物は、長野県南牧村の海ノ口高原に建つ「八ヶ岳高原ヒュッテ」という建物です。
東京目白にあった古い洋館を別荘地の中に移築し、一時期ホテルとして営業していました。
いまから27年前、このホテルはテレビドラマの舞台になりました。このドラマの後、八ヶ岳山麓の清里や野辺山は空前のブームになりました。ホテルの前にもたくさんの観光客が集まったものです。
その中に私もいました。この建物との出会いが、歴史的な建築に興味をもつようになったきっかけでした。このきっかけから信州を旅するようになり、下栗集落と出会い、現在へ・・・
その後、時を重ねるごとに高原ヒュッテを訪れる人は減り、ホテル営業を止め、現在この建物はひっそりと高原にたたずんでいます。空前の清里ブームも今や伝説と化しているでしょう。

あれから27年、あのドラマ「高原へいらっしゃい」がリメイクされ放映されます。もちろん舞台は「八ヶ岳高原ヒュッテ」です。
これも何かの縁。初心に戻って出発点だった信州の集落町並みをもう一度訪ね歩こうかと思っています。
写真は今から20年ほど前


編集後記(2003.03.29.)

東京丸の内の日本工業倶楽部会館が保存再生され、再オープンしました。
思えば、6年程前に隣接するオフィスビルとの共同建替え検討がスタートしました。新聞発表の後、学会や市民団体から保存要望の声が上がり、プロジェクトの前半は保存方法の検討に明け暮れました。社会からの要望もさることながら、私自身、古い集落や町並みが大好きであり、現代において歴史的な建築を残し活用していくことが重要である事は誰よりも分かってますし望んでいる人間です。なんとか保存できないかと思っていました。しかし一方で、今後100年を見据え、大金をかけて機能更新を行わなくてはならないという命題もある。設計者として、また集落町並みWalkerとして、クライアントや社会の要求に最大限に応えながら、学会や古い町並み愛好家から見ても理解が得られる解答を出さなければならない。本当に、大きなプレッシャーの中でもがき苦しみました。
一般に保存と開発は、その目的から相反する方向のベクトルを持っています。だから、どうしても開発と保存は対立してしまう。よく保存推進側に立つ人が「今年は何勝何敗だった」という表現をすることがある。いままでは、開発と保存の両面を持つプロジェクトの場合、どちらかが押し切る形で結論が出されてきたように思います。しかし、日本工業倶楽部会館の場合は、安易に一方的な結論に導くのではなく、歴史的価値の問題、技術的手法の問題、行政支援の問題など、保存を取り巻く様々な問題に真っ向から挑み検討し、解答を出すことが出来ました。しかもインターネットで内容を公開しながら議論を進めたということでも、今までにない試みであったといえます。
完成した工業倶楽部を見て、私は保存再生された建物の出来映えとしては、開発者にとっても保存推進者にとっても納得できるものになったのではないかと思っています。単なる保存ではなく、新たな価値を生み出す事が出来たのではないかと。工業倶楽部会館は、会員制施設のため非公開ですので内部を見てもらうことは出来ませんが、外部は自由にご覧頂けますし内部空間も建築雑誌等で紹介されると思います。これから、どのような評価が下されるか、集落町並みを愛する方からどんな感想が飛び出すか、緊張するところですね。

編集後記(2003.02.10.)

丸の内ページもupし、ようやく一通り完成しました。しかし、DATA BASE全体の完成には時間がかかりそう。北から順次UPしようかと考えましたが、件数の多い県からはじめたほうがよさそうです。北海道、青森県の次は山梨県、静岡県を載せようと思ってます。

今年1月は港北ニュータウンから始まりました。ニュータウンは言ってみれば生業をサラリーマン業とする人々の巨大な集落です。農地の少ない都市近郊の丘陵地帯が選ばれ、ニュータウン開発されました。初期の多摩ニュータウン永山地区などは丘陵の起伏をならして新たな地形を造っていますが、後期のニュータウン開発ではもともとの地形をいじらず、谷部に旧農村が入り込んだりしており、集落町並みWalkerから見ても楽しい空間となっています。また、東京の高島平など初期の団地は、平地に等間隔に駅を造り、必要な学校、スーパー、図書館などを住戸数に応じて配置し、住棟を並べるというパソコンゲームの「シムシティ」みたいな無味乾燥とした町です。しかし、30年以上経つと玄関やバルコニーに各住戸の表情が感じられるようになり、街路樹も育ち、町のいろんな場所に古びたものが見られるようになる。第2世代は家を出て老夫婦ばかりが住んでいるという、山村や漁村の一集落と変わらぬ状況になっているようで、盆正月になると息子娘が孫を連れてふるさと高島平団地に帰郷する光景がみられます。
ニュータウンで足りないのが神社や寺、墓地、赤提灯の飲み屋、花街。こういったものは、隣接するニュータウン範囲外の部分が補っているようです。港北ニュータウンも昔からの古い神社が残っており、新旧住民の詣でる場となっています。

歴史的町並みのみならず、新しい町並みにも積極的に目を向けていくつもりです。



編集後記(2003.01.07)


有名な歴史的集落町並については、文献やサイトなどで紹介されています。それらの多くは徒歩の時代に繁栄を極めたけれども、その後鉄道や車の時代に取り残されて残っているケースが多く、昭和40年頃に失われ行くことが予知され重要なものがピックアップされたものです。あるものは「伝統的建造物群保存地区」などに指定され保存再生されたもの、そこまで行かなくても市町村レベルで守られているもの、観光資源として活用されてるもの、ほとんど変わってしまったもの、消滅してしまったものなど様々です。
現在、残っている集落町並みを見てみると、そのような何らかの価値が認められ、保存しようとする意思がはたらいているものと、昭和40年頃には特筆すべき場所ではなかった(他にごろごろしているような集落町並みだった)けれども、その後の現象の中でたまたま残っており希少価値が出てきているもの、という大きく2パターンがあるように思います。後者のものは、現在全国的にかなりの数があるものと思われますが、実態が把握しきれていないものと思います。
また、ピックアップされているものの多くは、歴史的な価値の高い建物が残っている場所がほとんどであり、建物の歴史的価値は低いが地形との関係や形態に特徴があるものについても同様にピックアップされてはいません。
このような、すばらしいあるいは面白いけど場所だけれども注目されていない集落や町並みを拾い上げたいという気持ちで、このサイトを立ち上げました。
ひとりで全国の集落町並みを見に行くことは一生かかっても到底無理だと思っています。ごらんになった全国の方々から、貴重な情報が集められればと思っています。