金曜日18:30。会社の仕事を終わってから沖縄に行くことができるのですから東京というのはどこへ行くにも便利です。偏西風の強い冬、東京→那覇は実に3時間かかり、23:30に那覇のホテルに着きました。
これから晩飯のために一人で街へ繰り出すのも面倒くさいので、ホテル1階の居酒屋で簡単に食事をとることにしました。沖縄といえばオリオンビール。グビッと飲んで豆腐チャンプルーをつまむ。明日に備えて今晩は早く寝よう。
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那覇 前島
ホテルは那覇泊港の近く。それは島に渡る船に乗りやすいからではなく、泊港のそばにある遊里を朝一番で歩くためでした。なぜなら前島3丁目は現役の風俗街なので営業時間を避けなければならない。朝一番が鉄則だからです。
ホテルの前の潮渡川を渡り、前島3丁目の町入ります。スナックがポツポツと現れてきます。ほとんどが沖縄らしく鉄筋コンクリート造の町家。そんな中に木造の民家があって、そこからいかにも南国というようなキーキーとした鳥の大きな鳴き声がして街に響き渡っています。進んで行くとスナックやーバーの看板がズラッと並ぶ通りが現れました。こういう看板の町並みは沖縄だけではなく内地でも見られますが、ここ沖縄では現役の風俗店。いわゆる戦後の青がそのまま続いている街のようでした。

中でも窓の無い壁にタイルで縁取られたアーチの入口を持つ「サロンチェリー」という店が気に入りました。この街、夜はどんなことになってるのでしょうか。
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さてそろそろ泊港ターミナルへ行かないと船に乗り遅れてしまいます。でも、島へ渡る前に昼飯を調達しておかねばなりません。小さな島では食堂もない場合があり、いままで何度も痛い目にあった経験があるのです。幸運にも前島3丁目にはコンビニがあって、おにぎりとサンドイッチを調達することができました。
渡名喜島経由久米島行きの船がゆっくりと那覇泊港を出ていきます。防波堤を過ぎると海は激しくうねり始めました。一時間ほど乗った頃、船内放送で「前方にクジラが居ます」。直ぐには見つけられませんでしたが、居ました居ました、何度も吹き上げられた潮を確認できました。
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渡名喜
渡名喜島が近付いてきました。沖縄にしては珍しく高い山のある島です。船は大きく南から廻り込んで、本島とは反対側にある港へ体をつける。







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那覇 辻
1日目の夕刻、日奈久温泉に着きました。明治時代に創業して以来ほとんどそのままの金波楼が今日の宿です。これが良かった!登録文化財であるのは当然のこと、隅々まで完璧なのでアール。部屋もよし、風呂もよし、そして料理がおいしい!あー1年間頑張った自分へのご褒美だい!。
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那覇 桜坂
明治時代に創業して以来ほとんどそのままの金波楼が今日の宿です。これが良かった!登録文化財であるのは当然のこと、隅々まで完璧なのでアール。部屋もよし、風呂もよし、そして料理がおいしい!あー1年間頑張った自分へのご褒美だい!。
日奈久温泉の中でも一際大きな旅館だったんですね。朝食にはヒナグ味噌のみそ汁と日奈久の竹輪が出てまたおいしかった。
金波楼を後にして日奈久温泉駅へ。旧薩摩街道沿いは温泉町を支える商店街。商家には海鼠壁が目立ちました。
肥薩おれんじ鉄道は対岸に天草諸島を眺めながら、海岸線を南へ走ります。
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那覇 桜坂
遊里紀行ですが、ここで企業城下街を一つ挟みます。水俣は(株)チッソの街。かつては水俣病という悪いイメージで誰にでも知られる街でした。今や工場排水は綺麗に浄化されているのでしょう、工場の周りの排水路には鴨が戯れていました。
企業城下町は車で走りまわらないと要所を絞りこむことが難しいのですが、ここでは足しかないのでひたすら歩きましょう。木造の平屋建て住宅街を発見。これはチッソの社宅ではないと思いますが、いかにも社宅っぽい場所があったので取材しました。
大したことないけど飲み屋街もみつけた。よーし!最後に事前の地図分析により見定めていた目玉の大社宅町へいざ!しかーし・・・すっきり更地になっていました。3時間ぶっ続けで歩いたというのに、これじゃ収穫無じゃないか(涙)。
新水俣駅から九州新幹線に初めて乗ります。席は2+2でゆったり。自由席なのにグリーン車のようだ。
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鹿児島中央駅へ到着。そういえば、かつての西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)は記憶に残っています。学生時代は周遊券を有効に使い旅費を安くするため夜行列車を宿代わりに使う旅で、鹿児島本線経由、日豊本線経由両方の夜行列車で何度も西鹿児島駅で降りました。駅前には行きつけの「美峰」という名のラーメン屋があった。しかし、現在の鹿児島中央駅はあの日の駅舎もラーメン屋もない全く違う場所のようでした。
市電に乗って天文館通電停で下車。鹿児島一の繁華街を抜け、海の近くの甲突町という旧常盤町遊郭跡(戦後は旧赤)を目指します。実は、ここが今回の鹿児島のメインディッシュなのです。だけど・・・画像の建物くらいしかめぼしいものがありません。泡国が5軒ならんでいてやたら丁寧に客引きされた(もちろん入っちゃいませんよ)。「おい!がごしま〜っ!見所ないじゃん!」しかし、今回は成果の乏しい地味な旅が続くなぁ。
タイトルで「遊里を歩く」とブチ上げた割には遊里系がふるいません。鹿児島市街は、海岸線に近い街に戦災を受けていないエリアがある。であれば、そこを片っぱしから歩いて、古い建物を探しましょう。鹿児島の中心市街地の中の金融街へ来たらやっと出てきました。戦前の銀行建築、そして古い木造民家が密集するエリアが。これでやっと鹿児島ページも格好がつきそうです。
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コザ 吉原
ホテルから綺麗な夜明けが見られました。
今日もめげずにがんばるぞ!
宮崎市内の大淀川沿いフェニックス並木は美しく、一時は日南海岸観光と合わせた新婚旅行のメッカと言われていました。川沿いのホテル街の東端にかつて吾妻町新地と呼ばれた遊郭がありました。今やそのころの建物は無く、だだっ広い空地と2軒の旅館と石作りの塀だけが残っているだけ。石塀には出入口があり、そこにはスッポリと自動販売機がはまっていました。
中心繁華街の飲食店街は橘通西。そこは宮崎市内の一大歓楽街を形成していて、南端の恵比須町が昭和33年まで赤でした。今はコンパクトな泡国街。その一角に戦後の闇市から発展したような(定かではないが)食材屋と飲み屋がせせこましくあつまった建物「青空フードショッピングセンター」がありました。そして、恵比須町の西側にはラブホ街があり、橘通西界隈は典型的な歓楽街の構造を呈していました。
フーッ昨日から歩きすぎです。足がつらい。今晩はマッサージ必須です。
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コザ 照屋
日向市駅前で車を借り細島という古い港町へ行きます。ここは海岸線がまっすぐな南九州東海岸の中にあって貴重な入江のある良港。戦前は県内一二の大きな町だったといいます。画像は木造3階建ての高鍋屋旅館でこの前が遊郭でした。ここから西が商家町、東が漁師町だった。この建物が資料館になっていてボランティアの方の説明が早口で理解するのが大変でしたが、町の情報も聞き出せてよかった。漁師町は平地が埋め尽くされて背後の岡の上まで家が駆け上がっていました。
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コザ 八重島
延岡は宮崎県内でも三本指に入る町で、旧城下町ですが旭化成の企業城下町でもあります。工場が町の中にいくつもあり、社宅や厚生施設、購買部系のスーパー「日の出」などなど。小学校も旭小学校という名前でした。
そして遊郭ですが、岡富という地名だけで場所が分からない。文献の記載や町の様子から、ほぼ紺屋町、祇園町界隈で間違いないでしょう。痕跡はラブホとモザイクタイル円柱のある建物がみられる程度ですが。
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戸川
日之影町戸川はいつか行きたいと思っていた石垣の集落。遊里紀行だけど是非組み込みたかった。さあ日が暮れる前に山奥の50km離れた日ノ影町戸川集落へ、ワゴンRに鞭を入れます。結果45分で着いたのだから優秀でしょう。
イヤーこの集落は素晴らしい!石垣と石蔵の集落自体珍しいけど、これを作った大正時代の石工さんはたいしたものです。さらに背後に石垣を積んだ棚田が広がってて、建築と農地が連続している。美しい!心が洗われます!。
右の石蔵の画像、開口部周りの石材の長さや使い方に注目してください。きっちり面を出して積んだ技術、すごいと思いませんか。
戸川集落のもう一つの特徴が煉瓦蔵。一見煉瓦に見えない青い蔵は、タイルではなく煉瓦の表面に釉薬をかけて焼いたものです。欠けたところから赤茶の下地が顔を出しており煉瓦であることがわかりました。
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大分
泊まったホテルのそばに大分銀行がありました。一目瞭然、辰野金吾です。オーダー柱の強調された膨らみといい、サブエントランスの円形風開口といい、遊び心がでてきたころの作品でしょうか。煉瓦小口積みで窓心で割り付けを調整してる。なるほど、そうですよね。
西大分の生石港の傍らに、かつて「かんたん」という遊郭がありました。大分の中心市街地からバスに乗って「かんたん」バス停で降ります。国道を渡って町に入っていくと、おおっ!出たぁ!今回のタイトルに相応しい絵をやっと捕らえることができました。妓楼がずらっと並んでいるのは圧巻!空き地もありますが、かろうじて町並みの体を保つ状態を見ることができてよかった。
1階玄関周りには例によってタイル貼り。戦後の赤ではカフェーであることが営業できる条件だったため、1階にタイルを貼ったのでしょう。
旅の終盤ながらようやく遊里紀行が盛り上がってきたかな。
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浜脇
大分の旧かんたん遊郭跡で気をよくして、わが国を代表する温泉都市別府に入ります。東別府駅近くの浜脇は別府のなかでも大きな温泉街で遊郭があった。でも今では旅館を営業しているところはかなり少ないようです。旧浜脇駅(東別府駅)を降りて町に入ってみると、広範囲に次から次へと出てきます。どれが旅館でどれが妓楼だったものかはわかりませんが、とにかくたくさんお出ましになる。歩いていて実に面白く興奮します。
浜脇1丁目を歩いて思いがけない収穫に安心し、早速別府の中心部へ向かおうと思いましたが、時間もたっぷりあるので浜脇2丁目も歩いておこうと行ってみた。そうしたらまた出るわ出るわ!。赤のエリアだったかどうかは定かではありませんが、画像の建物は間違いなさそうに思いました。 |
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別府
別府の繁華街、楠町や元町は夜の飲食店街であり女性街でもあります。そのど真ん中に竹瓦温泉なる古くでっかい共同浴場が現れました。お寺の本堂だと思ったら中で桶の音がするではないですか。驚きました。
その後、北浜旅館街を歩き、真ん中にある別府タワーに上りました。おーこわ!なんと東京タワーより古く登録文化財なのです。設計者は東京タワーと同じ内藤多仲氏。そして、何が怖いかといったらガラスにヒビが入ったまま営業しているのです。もし割れて落ちたらどうするのでしょうか。まぁいまどきの観光客は湯布院へ行っても別府タワーには上らんでしょう。でもスリル満点ですよ。 |
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豊後高田
南九州遊里紀行も最後の街となりました。国東半島にある豊後高田。最近では「昭和のまち」という町おこしが成功し人気を集めています。
右から横書きした看板などはちょいとわざとらしいですが、脚色しなくてもそのままで昭和レトロですので、歩いているうちにおもしろくなってきました。町は結構歩きごたえがあり、商店街とそれを裏で結ぶ位置に歓楽街もあって、シンプルでわかりやすい。私は気に入りました。
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携帯電話の電池が無くなってきた。豊後高田のバスターミナルの自動販売機のコンセントがタコアシで余りあり!ちょっと拝借して復活した。
今回は今まで残していた熊本、鹿児島、宮崎、大分の旧遊里巡りを中心にした旅でした。成果は前半乏しかったものの後半目白押しになってなんとか形になったなぁという印象です。しかし温泉都市別府はすごいですね。改めて驚かされました。 |
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さて2010年、新年早々は「遊里を歩く」最終回の沖縄編です。 |