肥前 炎天紀行
 

肥後 炎天紀行 から
2005年夏の炎天紀行は後半、長崎県へと進む。天草下島本渡の旅館を6時前に出発した。会計はすでに済ませておいたので勝手にチェックアウトである。さわやかな朝、ロザリオライン(国道324号線)を気持ちよく走り鬼池港から島原半島へ早崎瀬戸をフェリーで渡る。
口之津(長崎県口之津町)
大きな入江形状の口之津港に入るやいなや左手の海っぺりに洋館が現れた。洋館は旧口之津税関跡で、そこから町が始まっていた。船が着いた港の最も奥で車を下ろす。旧市街の町並みをチェックしつつ走り、さっき海から眺めた端っこの旧税関に車を置いて歩き始めた。口之津の町並みは海岸線の沿った一本の通りの両側に一皮の家並みが続いている。風が厳しい場所なのか、瓦は漆喰やセメントで固められ、壁は板壁で覆われている家が多い。この地は南蛮貿易とキリスト教布教のために開かれた町。所々の民家に見られる洋風意匠に、この町の歴史を感じる。
白谷(長崎県島原市)
口之津から島原半島の東海岸を北上する。左手には島原半島の母なる山雲仙岳が常に見えている。段々島原に近づくに従って、その最高峰である普賢岳が大きくなってきた。そしてその広大な裾野の上部に、広く茶色く土が崩れた部分が見えてきた。1990〜1995年、母なる山普賢岳は約200年ぶりに噴火した。裾野の村や町は火砕流や土石流に飲み込まれた。あれからもう10年が経っている。その被害を受けたエリアに行ってみたらまだ立ち入り禁止区域となっていた。水無川流域が被害を受けたところだが、その東側の眉山に登る道路から跡地を眺めることが出来た。その土砂の流れたエリアのスケールは半端ではない。家を失った方々は本当に怖かったことであろう。しかし、その水無川のすぐ近くにもかかわらず被害を受けなかった集落があった。その集落に入っていくと石積塀の美しい集落であった。背後に不気味な普賢岳を眺める災害から免れた集落。ここに生活する人々も集落は救われたにせよ、本当怖い思いをされたのであろう。
島原(長崎県島原市)
島原は原城西側の武家屋敷町が有名で多くの観光客が訪れている。しかし、町人町の方はあまり知られていない。自分も過去2度島原を訪れているにもかかわらず、町人町の方は歩いたことが無かった。水路に鯉が泳いでいる町をテレビで見たことがあったので、必死に武家屋敷町を探し歩いたけど見つからなかったことがあったが、その町は実は町人町の方にあったのだ。
城郭の門のようなデザインの島原鉄道島原駅前から町人町がはじまている。川を渡って万町新町を歩くと通りの脇に清流が流れていて鯉が泳いでいる。島原の町の背後にそびえる眉山の伏流水が町中で湧き出しているのだ。清流の流れはいいもので、暑さを癒してくれる。さらに新町からアーケード町を横切り、白土町を歩く。白土町の旧島原街道沿いは中心市街からやや外れているため古い町並みがよく残っていた。
しかし、今日も天気がいい。写真の日差しを見てほしい。そんな日差しの下、南北に長い島原の町並みを歩き終わった後、今来た道を戻る気はしない。少しでも涼しいアーケード街を通って駐車場に戻った。
国見(長崎県国見町)
島原半島の北端、国見町は多比良が中心だが、隣の神代に古い町並みが残っている。旧街道から島原鉄道の線路を渡ると何気ない農村だが、その中に時間が止まったような武家屋敷町が残っていた。町の中心は神代鍋島家の居宅(陣屋)である。そのお屋敷はとんでもなく広く、長屋門は通りからどーッと奥まって構えていた。そして通りから門までは立派な石垣が続いている。敷地内には何棟もの建物が建っているようだ。
町並みは、武家屋敷町よろしく、お決まりの石垣と生垣だが、街路の脇には石造の側溝が残っている。300年前に造られた町の構造が殆ど変わらず現代に伝えられているのには驚いた。
富津(長崎県小浜市)
さらに島原半島を反時計回りに1/4周する。半島の西岸の橘湾に突き出した猿葉山の南斜面にある、富津という密集系漁村集落を歩いた。いつもながらまずは港の堤防から集落全景を眺め、尾根筋・谷筋を頭に叩き込んでから集落内に入っていく。本当は谷筋のメインストリートを見つけて、そこから入っていくのが集落全体を把握する上では分かりやすいのだが、より効率的に全域を歩くために端っこから順番に攻める.。慣れない人なら迷路に惑わされる高等テクニックである。密集系漁村だけでもたくさん歩いているので、何処から入っていっても路地の主従関係は見破れる。路地が行き止まりか抜けられるか、尾根を越えて隣の谷へはどの路地を抜ければ行けるかなど、身体が勝手に判断できる。これがTVゲームであれば最短時間で最高得点を出す自信はある。しかし、こんな特技があっても都会での日常生活には何にも役に立たない。
端島(軍艦島)(長崎県長崎市)
さーて、今回の肥前炎天紀行のメインイベントである。長崎の南西の海に浮かぶ炭坑の島、端島、通称「軍艦島」を訪れる。軍艦島は狭い島に炭鉱町が高密度に形成された島で、日本で最初の高層建築群がある。しかし、現在は無人島の廃墟で荒れ放題。上陸は許可されないし、闇上陸も現在は取り締まりが厳しい。
野母崎港から今年4月から開始された軍艦島クルーズ船にのる。客は自分一人であった。「今日は波が静かだ」と船頭さんは言うが結構な波である。そんな荒れる海の真っ只中にコックリートの積木で築かれたような軍艦島が姿を現した。目の当たりにする島の姿は強烈である。島を一周しながら何回シャッターを切ったであろうか。ここに5000人が生活していたらしいが、考えるだけですごいことである。
港に戻り長崎市営のクアハウスで汗を流し、庭のベンチに座って軍艦島を遠望していた。夕陽がどんどん落ちて行く。「そうだ、軍艦島に落ちる夕陽を撮ろう」と思い立ち、海岸沿いに車を走らせた。野々浦という漁村でちょうど夕陽が軍艦島と重なった。今日も日中は大変な猛暑であった。暑さの源の太陽も西に傾き、海上の靄の中で弱々しくなっていた。

樺島(長崎県長崎市)
軍艦島から戻ってクアハウスで一日を終える前に近くの樺島の集落を歩いた。樺島は野母半島と橋で結ばれている。その橋の手前と渡った樺島に良さそうな集落がありそうだと地図だけ見て訪れた。結果は大したことは無かったのだが、半島の先端だし、炭坑全盛時代の風待ち潮待ち港だったし、ということで取り上げることにした。
長崎中島川(長崎県長崎市)
3泊4日の長旅も最終日である。先月は久方ぶりに長崎を訪れたが、中島川近辺だけ歩いていなかった。中島川の石橋群は1979年、大学1年の時に訪れている。その後、大洪水が起きて橋は流された。再建された後も訪れている。
大波止のホテルをチェックアウトしないで、朝の散歩という感じで出島から中島川を上っていく。出島は妙な整備が進められているが工事中なので取材はせず、眼鏡橋を目指す。石橋群を訪れるのは今回3度目であるが、まだ洪水後の整備工事が終わっていなかった。
今回は川沿いだけでなく周辺の町も歩いたが、改めて町の構造が分かった。中島川の両側の町は全ての街路が石橋で連結されていて、寺町に延びている。町並みは何度も訪れることで理解が深まっていくものなのだ。
出津(長崎県長崎市)
西彼杵半島の西岸を北上していく。目指す出津も過去に天主堂だけは訪れている。その時は知らなかったが、「日本の集落3」に石積壁の民家が紹介されていて是非再訪したいと思っていた。
海岸の風景はとても美しい。車の中はとても涼しい。やがて煉瓦造の黒崎教会が見えてきた。前回見落とした教会である。この教会は外もいいがインテリアが素晴らしい。艶やかな木の空間である。
黒崎から5分で出津である。資料館で情報を仕入れてから歩く。ド・ロ神父の建てた建物群は石積壁である。出津から山に入った新牧野集落にも石積壁の農家が見られる。ところが石積壁の民家は広範囲に点在している。こんなに暑いと一箇所に車を置いて歩く気はしない。不真面目ではあるが、車で小刻みに移動しながら歩くことにした。石積壁は現地で採れる結晶片岩であるという。平たい石を積み上げた壁はあまり他の地域で見たことがない。ド・ロ神父が自国フランスの田舎町の様式を持ち込み集落で流行ったとも言われるが、うなずける気もする。
最後に全ての壁が石積の大野教会を訪れた。残念ながら修復工事中で入れなかったが外から眺めることは出来た。

蛎浦(長崎県西海市)
大島、蛎浦島、崎戸島は以前より橋で繋がれていたものの九州本土とは船で渡らなければならなかった。近年橋が架けられたため、島にはいい集落が残っているに違いないと思って訪れることにした。
蛎浦の漁師町を歩いていると一角に遊郭らしき場所がある。風待ち潮待ち港として栄えたのか?とも想像したが、港の反対側の丘の上を見ると廃墟になったコンクリート造の建物が見える。もしかしてと思い、丘の上に上ってみると資料館があり、この地が大規模な炭坑町であったことが分かった。なるほど、炭鉱町は丘の上にあったようだが、下の蛎浦も潤ったようだ。
丘の上には多くの炭坑時代の集合住宅が廃墟になって放置されている。中には壁面がすっかり緑化されたものもあり、段々と風化するのを待つ気なのだろうか。
面高(長崎県西海市)
熊本内陸部に始まった炎天紀行であるが、最後の集落である。海沿いになってからはやや暑さが和らいだ感じはするが、相変わらず上天気で猛暑が続いている。
面高は内海の港に面する静かな集落で風光明媚でもあるが、面白かったのは外海側に面する集落景観。防波堤の外にテトラポットを敷き詰めた上に、金属パイプを足として固定し、その上に高さがそろった桟敷が組まれている。海産物の天日干しか何かに使用するものであろうが、その造形は素晴らしい。水際に降りて下から見上げてみた。床には竹や金属メッシュが張られているのだが、それが透けた空と同化いるのが面白い。建築デザインに使えるモチーフとして、いっちょいただきである。

面高を発ったところで一日の汗を流したいと思った。カーナビで近くの温泉を検索したら西海橋の近くのリゾートホテルにクアがあるようだ。1時間ほど余裕があるので一風呂浴びて帰ることにした。
佐世保インターから高速道路で福岡まで走り、予定時刻に福岡空港に到着した。おみやげの福砂屋カステラを買って飛行機に乗り込む。身なりは熊本県山鹿で買った黒の短パンに軍艦島クルーズでもらった「軍艦島クルーズ」と書かれた黒のTシャツ。平日の最終便にはスーツ姿の人も多くちょっと恥ずかしかったが、こっちは夏休みなので別に気にすることは無かろう。後で分かったことだが、山鹿で買った短パンは何と海水パンツであった。
・・・炎天紀行 完