天界の村を歩く
第5話 九州山地
 大学入りたての頃の私は、秘境と呼ばれる辺境の地ばかりを旅していた。集落町並みにのめり込む前夜のことである。1983年2月、熊本県の五家荘という山奥の村を訪れた。国鉄肥薩線人吉駅からバスに乗って子守唄で有名な五木村の上荒地という終点で下車し、川辺川に沿って山道を5kmいて泉村(現八代市泉町)の椎原(しいばる)という集落に着いた。五家荘は周辺との隔絶性の高い山村で、椎原・仁田尾・久連子・樅木・葉木という五つの集落からなる。そしてそれらの集落には、隔絶山村ならではの落人伝説がある。
 宿泊した椎原の「平家やかた荘」という民宿は、平家の落人の末裔と伝えられた家柄で、県の文化財にもなっている比較的大きな古民家だった。民宿に着くと、30代くらいの二人の娘姉妹が出迎えてくれた。ところが、その姉妹というのが二人ともびっくりするほど都会的な美人なのである。まるで横溝正史映画の一場面のようだった。
 それから12年後の1995年、九州山地の「天界の村」を歩くために再び五家荘を訪れた。
 高速道路を走るとエンジンと幌のバタつき音で会話も音楽も聴くことが出来ないほどやかましい三菱JEEPを転がし、東京から16時間かけて一気に泉村まで走ってきた。九州自動車道松橋ICを降りたときには西に太陽が傾き始めていた。国道218号線⇒国道443号線⇒県道小川泉線と経由し、泉村の中心地柿迫を過ぎて小さな峠を越えると五家荘である。峠の手前に棚田の美しい岩奥集落を見つけたが、夕食前には椎原の宿に着きたいので先を急ぐ。
 今晩の宿は12年前に泊まった民宿ではなく近くの旅館である。事前に問い合わせたが民宿は営業していないという。もう一度あの美人姉妹にお会いしたかったが・・・あの民宿は今どうなっているのだろうか。

1990年代にこのJeepでいろんな山岳集落を訪ねた

泉村岩奥集落(現八代市) 棚田の美しい集落である

落人伝説の里 五家荘
 
 椎原のかつて宿泊した民宿へ行ってみた。そこには、有形文化財緒方家住宅という古民家が公開されていた。何と、平家の末裔だった民宿は保存修復工事を経て文化財になっていたのだった。当然、あの美人姉妹など居るわけがない。入場料を払って中に入ってみると、12年前に泊まった和室がきれいに修復されていた。なんだか不思議な気分である。

 「肥薩国誌」によると、平安時代に藤原氏によって太宰府に流された菅原道真の子孫・左座家が藤原の追討を避けてこの地に入り、仁田尾・樅木に、また壇ノ浦に破れた平清経の孫3人も逃れ来て緒方姓を名乗り、それぞれ久連子・椎原・葉木に隠れ住んだのが始まりと伝えられている。もちろん、信憑性のない伝説だが、住んでいる人々自ら「何でこのような山奥に先祖が住むようになったのであろうか」と問い続けてきた結果なのであろう。

 これから五家荘の五つの集落を巡る。椎原は五つの集落の中心的な存在で、川辺川の河岸段丘上に形成されている。緒方家のほか寄棟造りの古民家が見られる。久連子は川辺川の支流久連子川谷に開かれた谷底の集落で、古代踊りや県天然記念物の久連子鶏が生息する地である。葉木は川辺川の支流谷内川谷に小集落。仁田尾は小原川の上流でまとまった集落を形成せず、数軒が点在する。そして樅木は五家荘の中でも最奥に位置し、宮崎県境の椎葉越(峠)に通じる道にあり、川辺川に面する斜面の中腹にある。今では、平家の落人伝説や当時の暮らしぶりを今に伝える資料館「平家の里」という観光施設がある。かつて外部の人間がほとんど訪れることのなかった閉ざされた村は、秘境観光に一生懸命力を入れていた。


椎原の有形文化財緒方家住宅は平家の落人の末裔と伝えられている古民家(公開)

古代踊りが残る久連子集落

山の中腹に形成された樅木集落

樅木集落にある「平家の里」の資料館に展示されていた「平家落人行動図」。これはいろんな伝説の一部を表したものであり、わが国の秘境と呼ばれる辺境の地には無数の落人伝説がある。
 
九州山地最大の天界の村 
椎葉村
 
 五家荘樅木集落を後にし、九州の背骨を越える。椎葉越は西側の五家荘と東側の椎葉村を結ぶ1500m級の峠で、東西の谷が良く見渡せる。峠からダート道を下っていく。JEEPならではの味わい深い林道ツーリングだ。西から東へ流れる水無川の谷底から斜面を上った山腹には、北岸南岸問わず集落が形成されている。北岸に日当、南岸に日添という名前の集落が相対してあるのも地形を良く表している。

 峠を下った所にある神輿という集落に今日の宿「民宿焼畑」がある。サインに導かれて細い道を入っていくと銀色のトタン屋根の平屋建てが見えてきた。「お世話になります」と声をかけると健康そうなおばさんが出てきた。「いらっしゃい。あれ、今日だったかなぁ」とおばさんは困った様子。どうやら予約した日にちが1日間違っていたようだ。「明日だと思っていたので夕飯の材料がないわ。」と言いながら家の周りに生えている野草を摘み始めた。「私は野草で何が食べられて何が食べられないか全てわかってる。珍しいと思うけど安心して召し上がれ。」夕飯は野草のおひたしや天ぷら。素朴ながら新鮮で美味しい。このご夫婦、実は日本でも数少ない焼畑農業を現役で続けている二人だった(1995年当時)。「日本雑穀学会」がご夫婦の焼畑農業を見るために、椎葉村でシンポジウムを開催するほどの方々なのである。

 この夜は、椎葉村のこと、焼畑のことなど、ご夫婦に話をじっくりうかがった。焼畑はいつ山に火を入れるか、その判断が難しいという。天気の具合を予測し、前日に決定するのだそうだ。山を焼いた後、蕎麦やアワヒエなどの種蒔をして栽培する。数年後に土地が痩せたらまた次のエリアへと移動する。何年か経ってもとの土地に戻った頃には、土地が肥えていて焼畑に適した状態になっているのである。

 民宿焼畑のお宅は、椎葉村に見られる典型的な並列型民家。等高線に沿って建てられた細長い主屋の中は、右から土間、ウチナイ(板)、デイ(畳)、コザ(畳)と横一列に並ぶ。前面谷側には縁があり、背面山側は全て収納や仏壇だ。デイ・コザには手前と奥を分ける一本の木が敷かれている。その用途は不明だが、祭事などで空間を分けるなど、何らかの意味があるのだろう。

椎葉越から宮崎県側の椎葉村を眺める

椎葉村で唯一焼畑農業をされていたご夫婦(1995年)

椎葉村の民家(民宿焼畑)
部屋が一列に並び山側は全て収納になっている

椎葉村の民家(民宿焼畑)
連続する部屋の床には長手方向に見切りの木材が一本敷かれている。建具をはめる敷居でも無いため用途が不明。

夜狩内集落
日向椎葉湖(人口湖)を見下ろす尾根上の集落。(上)
 さて、椎葉村の天界の村とはどんな集落なのであろうか。椎葉村の中心、上椎葉周辺では谷は深くなり、日当たりの良い焼畑農業に向く緩斜面は谷底の道から仰ぐような高い位置にある。椎葉村の展開の村は、四国山地のそれと同様に尾根の上まで棚田を耕作した集落が多い。しかし、一つ一つの集落規模は小さく分散しているのが特色である。
 上椎葉の国道沿いに椎葉村の行政経済の中心である町場がある。そこに「鶴富屋敷」と呼ばれる大きな古民家が保存公開されている。鶴富屋敷は椎葉村に伝わる落人伝説にゆかりがあるお屋敷だった。その伝説とは次のような内容である。

 道なき道を逃げ、平家の残党がようやくたどりついたのが山深き椎葉だった。しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令される。ところが、病気のため、代わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を受けた。椎葉に向かった大八郎は険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見。だが、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、哀れに思い追討を断念し、幕府には討伐を果たした旨を報告した。普通ならここで鎌倉に戻るところだろうが、大八郎は椎葉に屋敷を構え、この地にとどまった。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け、協力し合いながら暮らしたという。そして、平清盛の末裔である鶴富姫との出会い恋に落ちた。

 伝説としてもまことにユニーク過ぎて思わず笑ってしまう。しかし、椎葉村の人々のほとんどが、平家の末裔といわれる「椎葉姓」と源氏の「那須姓」の2つであるという事実もまた不思議である。

 1995年の旅では、この後豊後水道をフェリー四国へ渡った。

 それから10年後の2005年。椎葉村の十根川集落と米良荘を訪れた。
 十根川集落は、上椎葉から五ヶ瀬町へ抜ける国道265号線の途中から東へ入ったところにある。1995年の時にはこの集落の存在を知らなかったが、その後国の重伝建に選定された。九州山地の山岳集落は、同じ「天界の村」である長野県遠山郷や奈良県十津川、徳島県祖谷山とに比べて集落ごとの戸数が少なく割りと散在している形態だが、十根川集落は規則正しく石垣で宅地を雛壇状に造成し民家が集まっている。等高線に沿って細長く一列に配棟し、部屋も一列に並べる平面形が特徴である。その規則性が集落空間をやや単調にしており巡って歩く面白さにかけるが、石垣の石が黒くしっかりと積み上げられている造形は美しい。

 
中の八重集落
 

水越集落

上椎葉の「鶴富屋敷」という大きな民家は、300年前の建設といわれ、伝説の鶴富姫と那須大八郎の恋物語の舞台となった場所である。

新岩屋戸集落
谷底の国道沿いに形成された新しい町。


十根川集落

黒い石垣で規則正しく雛壇状に石垣が積まれている
夜神楽の里 米良荘 
 椎葉村の南側、九州山地にある西米良村を歩く。米良荘は九州山地を水源とする一ツ瀬川の上流域一帯を指す地方称で、現在の宮崎県西米良村、西都市東米良地区・寒川地区辺りをいう。谷が深く平地が無いため、集落は尾根の緩斜面を見つけるように形成されている。米良荘は現在、宮崎県だが、かつて椎葉村とともに人吉藩(熊本県)に属し、菊池(米良)氏がまかされて支配していたから、昭和18年に米良街道が高鍋へ開通するまでは熊本県との関係が密接であった。いまでも村内で済まない買い物は熊本県湯前へ出るようである。
 村所は西米良村の中心市街で、一ツ瀬川と並行する米良街道に沿って町が形成されている。古い町並みではないが山里の町場としての雰囲気がある。川の対岸にある集落は、石垣の段々集落になっていた。
 村所の歴史資料館に入って展示資料を眺めていると「狭上」という集落にある民家の写真が目に留まった。「ここはどこにあるのですか?」とたずねると、「ここから30分くらい山道を登っていくと狭上稲荷という夜神楽で有名な稲荷様がある。この写真はその稲荷を管理するため代々ある家だ。」
 狭上へ向かう道は細く険しく、とてもこの先に人が住んでいると思われないほどの山道である。村所から30分かかってようやく着いた。米良荘では伝統芸能の夜神楽が毎年12月に催される。九州山地では高千穂の夜神楽が有名であるが、米良神楽はあまり知られておらず素朴で、村の各所で順番に行われる。狭上稲荷大祭は最初に行われる場所。1軒の社務所をかねた民家があり、人が住んで稲荷を守っていた。

西米良村の中心市街 村所

狭上神社
 長野県南アルプスから始まった山岳集落の旅「天界の村を歩く」は、中央構造線に沿う西日本外帯山地を西へ進んできたが、ここ九州山地が最西端である。
 中央構造線は長野県諏訪湖から東へ向かっても伸びており、茨城県大洗付近を東端としている。「天界の村を歩く」シリーズ最後は関東山地である。埼玉県の奥秩父から東京都奥多摩地方にかけて、改めて歩いてみることにしよう。