アキバ☛下谷 ぶらり旅

これから時たま歩く近在の小さなまち歩きを「ぶらり旅」と題して紹介していくことにしましょう。

梅雨の合間の週末、
建物ずきの友人と秋葉原から下谷にかけての非戦災地区を歩きました。

アキバですのでこの曲を聴きながらご覧ください。  


秋葉原

秋葉原電気街は行くたびに姿を変えています。ラジオや無線のパーツを売っていた電器街→家電量販店→オーディオ・レコード→パソコン・ゲーム→仮想空間のキャラクター・アニメへと、街の主役はドンドン交替している。そう、
秋葉原はわが国のオタク文化をけん引してきた街なんですね。それもすっかり国際市民権を得ている。駅前は複合再開発ビルが二ョキニョキと完成。そして今では中央通り沿いのさほど古くもなかった大型電気店が建て替え工事を行っています。過去になどこだわらず常に前に進もうとしている街なんだ、アキバは。

「駅横の高架下にあった秋葉原デパートがない!」と駅を出た友人が叫んだ。そういえば露天販売で有名だった秋葉原デパートってのがあったね。残念ながら建替え工事中。でも、その横の秋葉原電波会館は健在です。この建物が秋葉原の電気街の歴史を記憶してくれているのはうれしいことです。

中央通りを渡って、旧旅籠町へ。ここは神田講武所という花街の一角に含まれていた所。電気街の中に昔から場違いな料亭がありましたが、それは場の地霊なのか。お稲荷さんこそ戦前の歴史を伝える存在でしょう。
 

 

 
昌平橋が見えてきました。神田川からお茶の水方面を眺めた風景は私のお気に入りです。川沿いに戦前の建物が建ち並び、中央線の煉瓦造の高架の下にはレストランが入っている。しかし、友人は反対方向の赤い住友ビルに魅かれているいる様子。全く興味の対象が異なっているようです。

交通博物館はかつての万世橋駅でしたが、今では大宮に移転し、空の建物がまだ残っていました。

 

 
神田川南側に沿っている柳原通りを行くと銅板建築群が現れました。
「そうか、ここだったのか!」

有名な海老原商店、知っていましたが場所を知らなかった。町歩き探訪家としては不覚でした。でもきれいに4棟見事に並んで残っていますね。大したもんです。
 
アキバといえば「メイド喫茶」を体験しなきゃ。今やアキバの町並みを構成している重要な一要素であります。
店ではデコラティブなスパゲッティやらオムレツやらを薦められましたが、まだ昼飯には早いのでカプチーノを頼みました。そうしたら
メイドさんがひざまずいて文字のデコレーションをしてくれた。はあ、かなりマニアな私であっても(ジャンルがちゃいますので)、ちょっと理解できない世界であります。でも一人で来店し楽しそうにメイドさんとお話をしている男子がいました。これぞオタクか。

 


昭和通りを東へ渡ります。するとアキバの賑わいは無くなり、休日の静かな問屋街になります。JR総武線の高架は高くまっすぐ浅草橋駅と延びている。その構造は鉄骨ではなく鉄筋コンクリート。大きなアーチ構造になっており、2階建ての店舗がスッポリと収まっています。しかし、一部に建物が立ち退いて大きなアーチがパカーンと口をあけているではありませんか
このようなガード下の町並みというのも私の追っかけているテーマの一つなのですが、どうやら最近立ち退きが目立つように思います。耐震改修が原因なのでしょうか。いずれにしても建築基準法上、どのように扱われているのか不思議です。

 
 
 

 

 

 
 
小島 台東

さて、ここから戦災地図を片手にどんどん北上していきます。戦災を免れたエリアに近づくと戦前の建物が現れてきました。
「ほら、ここから戦前の建物が現れてきたよ」
しかし、またもや友人は戦後のビルにばかり興味がいっている。???

台東3丁目に入るとどの通りにも戦前の看板建築や出桁町家が見られます。改めてすごいなぁと関心関心。



昼食をとった佐竹商店街はレトロなアーケード街。日本で2番目に古い商店街ですって。知らなかった。

小島1丁目でL型にスレートの看板建築が並んでいる一角があった。

こりゃすごい!年季の入り方が完ぺきだ。

 
小島地区を戦災から守ってくれたのが、震災復興の不燃建築として建てられた小島小学校です。当然、公園と隣接している。
どこもかしこも丸丸しているのが震災復興小学校共通のスタイル
これには友人も良い反応を示してくれました。
ところが校庭が駐車場になっている。小島小学校は都心部の子供の減少により廃校になっていました。そういえばここらは高層マンションがあまり見られませんからね。都心回帰で増えつつある子供人口もこのあたりではあまりなさそう。

小島小学校前の公園に面した角地には、以前より
スレート貼り外壁(不燃)の木造3階建て民家が残っていますが、色が違う? 以前は白かったのがブルーになっていた。


 
 
 


 
 
東上野

春日通りを北へ越えると東上野地区です。ここは東京大空襲の時に風上にあった広大な上野公園のおかげで戦災を免れたエリア。上野駅東側一帯がそうです。
ここも十分歩いているはずでしたが、視野の先に見覚えのない建物が。
おお同潤会上野下アパートではあるまいか。これも初見で興奮してしまいました。裏には大きな銭湯も残っていました。やはり町歩きはしらみつぶしにやらないといけませんなぁ。


 
 


 
 
入谷

東上野から入谷を経由して根岸へ。入谷では金美館通りの有名な酒屋さんを再確認に。ここではうれしいことに

邪魔だったアーケードが取り外されておりました



 
 

 
 
根岸

根岸の非戦災地区に残る
大正建築の鴬谷アパート
屋根に窓がついた3階建ては、外装が新しくなっているため全然古くは見えませんが、実はこれが大正建築なんです。木造建築は2階建てしか許されていませんでしたが、関東大震災後は屋根裏部屋が許されるようになりました。それに伴ってマンサート屋根(あるいはマンサール屋根)の木造2階建て、実質的には3階建てがもてはやされて建てられました。このアパートはその現象の一つなんです。

って友人に解説。しかし、
彼は遠くの赤いビルを望遠で撮っている・・・

根岸にはかつて文人が多く住んでいたという根岸の里がありました。一方、金杉通近くには遊郭もありました。遊郭と駅との間には特飲街があったのでしょうか。それと連携して旅館街があったのか。今や東京都内でも有数のラブホ街でですが、その成立過程と町との関係が興味深いです。ラブホ建築は派手な洋風が多いですが、
はずれには昔ながらの旅館が一軒残っていました。
JRを渡って谷中の墓地へ。秋葉原からずっと歩きつづけたため谷中を探索する余力はもはや残っておりません。日暮里駅で今日はおしまいとなりました。画像は谷中の外れ、日暮里駅に近いところに残っていた古いアパートです。

次回は、谷中の町並みからじっくり歩き直したいと思います。