天界の村を歩く
第2話 紀伊山地
 
渥美半島から紀伊半島へわたる
 
 天界の村の見られる西日本外帯山地は南アルプス西麓から中央構造線とともに西へと延びている。南アルプスの峰は高度を下げて豊橋から渥美半島になり、伊勢湾の入口である伊良湖水道を渡って紀伊半島鳥羽で上陸し紀伊山地へとつながっている。
 1994年、伊良湖岬よりフェリーに我が三菱ジープを乗せて鳥羽へ渡った。紀伊半島は山が険しく、鳥羽から南下する熊野灘に面する海岸線には平地がほとんどない。斜面にへばりつく漁村石を積んだ農村、これから訪れる紀伊山地の山岳集落が如何に険しいかを予告している。紀伊半島の最南端、串本の橋杭を眺めてから山の中に入っていく。今では世界遺産になった熊野古道も熊野本宮大社もこの旅の目的ではない。紀伊山地の水を集めて熊野灘に流れる新宮川(十津川村では十津川)に沿って遡り奈良県に入るとそこは天界の村十津川郷である。

 

熊野灘に面する古江集落(三重県尾鷲市)

石垣を積んだ農村 田垣内(和歌山県那智勝浦町)

十津川郷とは
 
 十津川郷とは、今の奈良県吉野郡の奥に広がっている広大な山岳地帯で、十津川の上流域にあたる十津川村、大塔村、野迫川村、天川村の総称である。谷は深く平地はほとんどない。まさに「秘境」という人文地理の概念に当てはまる地域である。そんな十津川郷の特殊性を良く表している一文を司馬遼太郎『街道をゆく十津川街道』より引用する。
「幕末京都にあって反幕府勢力を成していたのは、ある時期まで長州藩士と九州諸藩や土佐の脱藩浪士たちであり、文久3年(1863年)、長州の没落後は薩摩藩が主力を成したが、その間、これらに伍して「十津川郷士」という集団が、小勢力ながらも存在し続けた。市中に藩邸じみた屋敷を持ち、どうせ借家であったろうが十津川屋敷などと称されて、十津川から出てきた連中が合宿し、御所の衛士(エジ)を勤めていた。むろん全員が苗字を名乗り、帯刀し、士装していた。なんとも妙な一帯で、十津川村民というのは、本来、百姓身分なのである。
 大和十津川御赦免所
  年貢要らずの作り取り
という里謡が江戸期からある。
 御赦免というのは年貢をおさめなくてもいいという意味である。十津川郷民の気質の明るさはこれをさえ特権であるかのように里謡や文書などで自慢しているが、要するに米が獲れないために幕府がやむなく免租地にしていたわけで、「年貢要らずの作り取り」などと誇っても、作り取りして自分のものにできるような水田も無いに等しく、本来、山仕事で暮らしている山民なのである。
 しかし十津川農民の不思議さは、下界の体制が自分たちを百姓にあつかおうが扱うまいが、主観的には全村が武士だと大山塊の中で思い込んできたことだった。」
 十津川郷の人々は、平野部から隔絶された山村で必ずしも豊かな生活ではなかったであろう。しかし、代々御所の警備にかかわるという気高さをもち、里から遠く離れたこの山中で生活することが御赦免という租税上の特権につながり、結果として桃源郷をつくりあげていたということなのか。
 

すべての谷に入る
 
 さあ、これから十津川本流と何本もの支流がつくり上げた山岳集落を探索する。十津川の目ぼしい集落を紹介した文献は無いので、地形図と十津川村史をたよりに南から順番に辿ることとしよう。十津川本流は南北に大きく蛇行しならが流れているため両岸の斜面上部には南面する日当たりの良い場所が何箇所もできる。こういう場所に狙ったように集落が形成されている。また、支流は本流から東へ西へと分かれているので谷は東西に走る。したがって、支流域の集落は比較的北岸に形成されている場合が多い。そして谷が狭ければ狭いほど集落は山の上へ上へと駆け上り、逆に谷が広く日当たりの良い緩斜面があれば川に近い場所にも集落は下りてくる。これらが、地形図や空中写真を眺めて気づく十津川郷の集落立地の特徴といえる。

 
 


十津川郷に最も近い五條(奈良県五條市)
 十津川への玄関口である

五條から十津川に向かう間にある西吉野村
西吉野村から天辻峠を越えると十津川郷となる

紀伊山地の谷を深く刻みながら蛇行する十津川
集落は川から離れた山の上に形成されている
画像は十津川の中心地である小原周辺

かつて十津川の行政中心だった小森集落
現在は谷底に近い小原に村役場などの施設がある
十津川村
西川谷から上湯川谷へ

 
 十津川温泉のある十津川村平谷地区から支流西川を遡っていく。西川は和歌山県境の牛廻越を源流とし平谷で本流と合流する十津川の支流で、中でも比較的大きな部類である。川は小刻みに蛇行しているため、流れが曲がる内側には水田がみられる。上流域の小坪瀬は谷底ながら日当たりが良い地形なので、川に近い位置に集落がある。
 さらに川を遡っていくと車道は川から離れて峠に向かって高度を上げていく。迫西川集落は山腹の緩斜面に形成された西川谷最奥の集落で、昭和34年に林道が通じるまでは、小坪瀬まで歩かなければならなかった辺境の地だった。
 迫西川集落を歩いて峠である牛廻越を越す。峠からは十津川郷の山々が一望できる。和歌山県側に峠を下り、龍神村を経由して再度十津川村上湯川谷に戻ろうとしたときのことであった。ジープのラジオからはちょうど日本シリーズの試合が生中継で放送されていた。山道を運転しながらラジオのチューニングに気をとられた瞬間、真正面に車が現れ急ブレーキ!大きな正面衝突は避けられたが対向車のボンネットは強固なジープのバンパーの前にクの字にへこんでしまった。龍神村の農家で電話を借り、お巡りさんを呼んで現場検証。この事故、私の不注意が原因のようだが、我が車人生で唯一の事故である。今回の旅、なんか不吉な予感がする。
 気を取り直して旅を続行しよう。引牛越という峠を越して再度奈良県十津川村に入る。上湯川沿いにこの日最後の集落を訪ねる。出谷殿井は上湯川谷の北側斜面にある集落。急斜面
ゆえ建物の配置が見事に等高線に従って弧を描いている。何とか日が暮れる前に訪れることが出来てよかった。
 

西川谷の集落

西川谷最上流部の迫西川集落
谷底から離れた南向きの尾根上にある

上湯川谷の出谷殿井集落
十津川村 芦廻瀬川谷
 
 小原の約1.5km南で分かれる芦廻瀬川の谷に入る。高滝集落は芦廻瀬川の南岸山腹にある集落。天界の村では日当たりの悪い川の南岸に集落が形成されるケースは少ない。その場合は、山の中腹に日照の確保できる手ごろな緩斜面があった場合である。十津川郷の代表的な住居形式は、並列式、あるいは一列型と言われ、傾斜地の一部を削り取り、時にはさらに盛土や石垣で補って造った狭長な平坦地に、切妻平入りの母屋の各部屋はもとより、厩、物置、風呂場、便所にいたるまで横一列並ぶ。高滝の民家はその典型で、等高線に沿って緩やかに弧を描いている。
 芦廻瀬川を遡ると小川という集落で人家が途切れる。一方、芦廻瀬川から北へ分かれる支流大野川に沿って入ると
大野集落がある。十津川村の中心地小原から車で行くと奥の奥という場所だが、小原から十津川を渡り武蔵集落を経由する尾根づたいの道を歩けば意外と近い。このように、天界の村どうしは元来、尾根道によって結ばれていたため、谷の車道を軸に考えるのとは好立地の順序が入れ替わるのである。大野集落は立地する斜面の角度がかなりきつい。斜度が大きいと宅地化は切土だけでは無理で、石垣による盛土も必要となる。
 

支流芦廻瀬川の南岸山腹にある高滝集落

芦廻瀬川のさらに支流大野川の奥にある大野集落
小原から谷底で行くと遠いが尾根づたいだと近い
十津川村 滝川谷

 十津川は村の北部で風屋ダムにより堰止められ風屋貯水池が出来ている。大雨の時に流れる流木はこの貯水池に集められ、ダムの手前の水面を埋め尽くしていた。
 村の東部に源流をもちその風屋ダムの直ぐ下で本流に合流している滝川を遡る。すると前方に、十津川村では珍しく水田が広がっている。水田の上には雛壇のように上品に建物が並んだ内原集落がある。内原集落を見ると斜面が緩やかであることもあるが一軒一軒の敷地が広い。母屋も比較的大きく蔵が目立っている。その佇まいは十津川郷の他の集落とは明らかに異なっている。水田の少ない山岳集落の中で、米を作っている希少性ゆえに比較的裕福であったものと思われる。
 十津川は降雨量が多く台風の通り道でもある。家屋は風当たりの強い斜面上にあるため、風雨に対して特別な考慮が払われている。内原の蔵は頭に帽子をかぶったような形状をしているが、これは風雨に対する備えであり十津川郷の民家の特徴である。

 滝川谷を後にし、西の杉清地区を往復した時、またもや危ういトラブルに遭遇した。杉清から戻る途中、路面にパラパラと土が落ちている。その場を通り過ぎて車を降り、しばらく眺めていると「ドッカーン」土砂と木が山の上から落ちてきた。通り過ぎる前だったら危うく立ち往生させられるところだった。その夜泊まった民宿でこの体験を興奮気味に話したところ、民宿の人はまったく驚いてくれない。こんなこと、十津川郷では日常茶飯事なのであろう。


土砂崩れ現場に遭遇!
十津川郷では珍しくもない日常の現象である
 

十津川郷では珍しく水田が広がる滝川谷の内原集落

内原集落

内原集落の民家

雨風の強い地域ならではの特徴
蔵には木の帽子がかぶされる
大塔村 船ノ川谷

 紀伊山地の水を集めて熊野灘に注ぐ新宮川は、地域によって名を変える。和歌山県内が熊野川、奈良県十津川村では十津川、奈良県大塔村天川村では天ノ川と呼ばれる。十津川を上り名前が天ノ川に変わった。天ノ川は相変わらず蛇行しながら深い谷を刻んでいるが、谷底でも日当たりの良い緩斜面が生まれる。そういった場所を十津川郷の先祖は放ってはいなかった。しっかり飛養曽という集落がつくられていた。
 本流から東に分岐する支流舟ノ川を上る。この谷にはひと際山の上にある中井傍示という集落がある。集落に登ってみると深い谷を見下ろす、「天界の村」と呼ぶに相応しい集落風景を見ることができた。
 今晩の宿は最奥部の篠原にある民宿で、十津川郷の伝統的な民家形態である一列型の住居であった。夕飯を食べながら民宿の方に村の話をいろいろと伺った。林業が主産業であるこの地域では、3代先の子孫のために土地があれば畑にするか木を植えるという。だから、家をつぶすときは必ず植林をするそうだ。また日本でも有数の多雨地域。大雨の時は間伐材が川に流され橋桁に衝突して物凄い音が山間にこだまするという。土砂崩れなどは日常のことで、大雨の後などに道が寸断されると、スクールバスが走れないので土砂崩れ地点まで子供を送っていかなければならない、などなど。山国ならではの興味深い話は尽きない。
 翌朝、昨晩聞いた山岳集落の生活の話を思い出しながら篠原集落をゆっくり散策した。石垣を積んで僅かな平地を造成し家を並べる。何故こんなにまでして山の中に住まうのであろうか。

 

大塔村に入って十津川は天ノ川と名を変える
大塔村飛養曽集落

谷を見下ろす高所にある中井傍示集落(大塔村)

石垣を積み農作物を干すハデが組まれる
野迫川村 川原樋川谷

 「天界の村 紀伊山地編」最後に訪れる谷は、野迫川村の川原樋川谷である。野迫川村は峡谷が深いため十津川との結びつきが薄く、和歌山県高野地方との結びつきが強い。そのため、村役場のある上河内集落は村内でも高野山に最も近い場所にある。村の特産に高野豆腐があることもそのことを示している。
 中津川集落は、十津川本流に近いが村内では外れにあたる場所にあり、川原樋川の谷底から仰ぐ急斜面の中腹に立地している。
 ここで、十津川郷に見られる民家の特徴について説明しよう。十津川郷は降雨量が多く台風の通り道でもある。家屋は風当たりの強い斜面上にあるため、風雨に対して特別な考慮が払われている。棟は一般に低く、屋根勾配を緩くし、2階建ては本流筋を除き皆無に近い。風雨に弱い土壁は土蔵以外には用いられず板壁を主とし、軒先から下へ二尺五寸の板を竪にうちおろし(ウチオロシ)、これに天井を張ってノキテンジョウと称する。また、まともな横殴りの風雨を受ける妻面の破風(スバル)にも、妻壁と平行にけらばに羽目板を竪に打ち下ろし、スバルノウチオロシまたはスバルイタと称されている。中津川にはこれらの特徴が見られる民家が残っていた。

十津川郷の防風雨を考慮した家屋形態
(「十津川村史」より)
十津川郷の古い民家が大阪の日本民家集落博物館に移築復原保存されている。

中津川集落(野迫川村)

防風雨設備であるウチオロシ(野迫川村中津川)

中津川集落からの眺め(野迫川村)
 
 十津川郷は北端の天辻峠までである。天辻集落を歩いて西吉野村を経由し、紀ノ川河岸の五條に下った。久しぶりに平野の町に戻って懐かしい気持ちすらしてくる。十津川郷の四ヶ村のうち三ヶ村の谷をほぼ巡った旅は終わった。紀伊山地の天界の村は、残る天川村と紀ノ川(丹生川)流域の西吉野村にも分布している。
 あれから十数年経た2007年春、五條の町を再訪した。遠くに雪をのせた紀伊山地の山並みが見えた。もう一度未訪の谷を含めて紀伊山地の天界の村を歩いてみたいと思った。
 さて、天界の村はさらに紀伊水道を渡り四国へ連なる。四国山地はわが国最大の山岳集落密集地帯である。「天界の村を歩く 四国山地編」は2回に分けて、東部の剣山周辺の集落と西部の石鎚山周辺の集落を紹介する予定である。