天界の村を歩く
最終話 関東山地
 日本美集落探訪「天界の村を歩く」は、二十数年前に出会った南アルプスの麓信州伊那遠山郷に始まり、静岡県天竜川流域、紀伊山地の十津川郷、四国山地東部の剣山周辺、四国山地西部の石鎚山周辺、熊本県宮崎県にわたる九州山地と歩いてきた。そしていよいよ最終話は、わが地元の関東山地である。
 山の中腹に立地する山岳集落は、西南日本外帯山地に分布していることが知られているが、遠山郷はじめ中部日本にも確認できる。中央構造線の太平洋側に険しい山地があるとすれば、関東山地もその一つであり、それらの最東端に位置している。埼玉県秩父市大滝(旧大滝村)の荒川上流域にも山岳集落が存在していることは知っているが、他にもあるかもしれないと思いつつもまとめた探訪が果たせないでいた。特に、東京都奥多摩町においては未だ集落探訪をしていないという怠惰な状況である。
 このシリーズの最後に本拠地に一番近い「天界の村」として奥多摩・奥秩父を訪れる計画していたら、当サイト掲示板に新たな天界の村を知らせる投稿があった。埼玉県秩父市吉田(旧吉田町)の石間というところにあるという。シリーズを完結させるためには見落としがあってはならない。関東山地全域を隈なく調べるため、群馬県、埼玉県、東京都、山梨県、長野県にわたり地形図とにらめっこし、等高線が集まっている上に存在する集落を洗い出していった。こうして新たにいくつかの「天界の村かもしれない」集落をピックアップした。これらを実際に訪れて確認しなければならない。
 最終話関東山地。どんな天界の村に出会えるのだろうか。

 関東山地は3日に分けて攻略する。第1日目は東京の屋根、奥多摩地方である。2007年11月17日(土)、早朝に車で出発する計画であったが、前夜飲みすぎて寝坊してしまった。完璧な二日酔いである。遠出をする場合は決して寝坊などしない私だが、近くだと気が緩むのであろう。これから車で走って行っては渋滞に巻き込まれるのが目に見えている。立川まで電車で行きレンタカーを借りることにした。立川出発が10:00だから少しはリカバリーできただろう。
 青梅以西の多摩川本流の北側には青梅街道、南側には吉野街道が走っている。今日最初の訪問は吉野街道沿いの丹三郎という人の名前のような集落である。かつては茅葺集落だったようだが今では数棟しか残っていなかった。多摩川を渡り、青梅街道を東へ戻って沿道の沢井集落を歩く。ここには古い入母屋造りの民家が2棟残っていて、そのうちの一つが地酒澤乃井を作っている小澤酒造である。

 

吉野街道沿いの丹三郎集落(東京都奥多摩町)

東京の地酒小澤酒造のある沢井集落(東京都青梅市)

東京都内の秘境 日原
 
 JR青梅線の終点奥多摩駅の駅舎は昭和19年に建てられた山小屋風の建築。紅葉真っ盛りの奥多摩とあって駅前にはリュックをしょったハイカーたちがバスを待っていた。この駅舎を眺めていた二日酔いの私は、無性に腹がへってかつ丼が食べたくなってきた。駅前の食堂に入ってみるとかつ丼があったので迷わず注文。味付けが濃く大してうまくもないかつ丼だったが美味しかった。
 
 さて、これからが「天界の村を歩く」である。多摩川の支流である日原川の谷に入る。日原と言えば関東随一の大きさを誇る日原鍾乳洞で有名だが、私はまだ行ったことがない。深く狭い日原街道を走っていくと前方の山の斜面に集落が現れた。本日最初の天界の村の登場である。日原大沢集落は小さいが高低差は結構ある。養蚕のために改造が進んだかぶと造の民家も残っていた。
 さらに街道を入っていくと上をトロッコ鉄道が走っている。奥に石灰の採石場があるからだ。谷は深く道幅は狭まり人家は途切れて、いよいよ秘境の様相を呈してくる。石灰の採石場を過ぎてトンネルをくぐると最奥の
日原集落に到着した。1500mを超える山々に囲まれた山里。とても東京都内とは思えない。それでもバスが着くと鍾乳洞や山登の観光客がどさっと降りてきて村を通過していく。その時、一瞬に賑わうのだが彼らが去るとまた静かな村に戻る。集落の上には木造の小学校が残っていた。校庭に古いトロッコ鉄道の機関車が置いてあった。

 


JR青梅線の終点奥多摩駅 昭和19年築

日原大沢のかぶと造民家 養蚕のための改造が著しい

最奥の日原 1500m越の山々に囲まれた東京の秘境
トンネルの真上の集落 中山
 
 多摩川本流に戻る。日原街道との分岐点にあたる交差点近くに蔵を従えた大きな町家型の民家があった。青梅街道を西へと進むと中山トンネルという長いトンネルがあって、そこを抜けると人造湖である奥多摩湖を造った小河内ダムに至る。その中山トンネルの入口のすぐ手前を左に曲がり急坂を登っていくと中山集落がある。トンネルの真上の急峻な東斜面中腹に、雛壇状に7軒がへばりついている。斜面を造成してわずかな平地を構築し、その上に出桁造りにした入母屋造り、建ちを高くして両妻面に開口を設けたかぶと造りの民家が数棟残っている。一軒一軒の屋敷地は狭く、主屋と付属屋はひしめき合っていて、土蔵も建てこんでいる。主屋は大規模なものではなく、三間取りか四間取り形式という。畑は斜めで、土が落ちないよう少しでも斜度を緩くするために間隔をおいて石垣が築かれていた。
 
 中山トンネルを過ぎると小河内ダム。ダムの背後の斜面にある水根集落に、数棟の茅葺屋根の民家を確認した。これはこれはと登って行ったが駐車スペースがないので、道端の広がった場所に車を停めて歩きだしたら「こらー人の駐車場に勝手に停めるな」と怒鳴られた。しょうがないのでやり過ごした。

 

中山トンネルの真上にある天界の村 中山集落

小河内ダムのすぐそばにある茅葺集落 水根

峰ノ谷 峰集落から遠望した奥集落  これほど見事な天界の村が東京都内にあったとは・・・
 
都内にもあった
第一級の天界の村 峰谷
 
 奥多摩湖の縁の青梅街道を、さらに東京都の奥へ奥へと進む。事前の地形図での調査では、峰谷の峰と奥という2つの集落が真っ先にピックアップされた。川底から離れた等高線が集まっている場所に家々が分布している集落となれば天界の村に間違いない。近づくにつれて期待が膨らんでいく。やがて谷底の道から左に道が分岐した。峰集落へのアクセス道である。やがて斜面に建つ民家が現れるが途切れることなく道はどんどん高度を上げていく。まず集落の最高点にまで行ってみた。民家が数件あり、奥多摩の山々を一望できる。峰集落は、最下部で標高670m、最上部で標高970m、なんと標高差300mの集落である。私の知る限り日本最大の「天界の村」と思われる徳島県一宇村の大宗赤松集落が標高差390m(標高350m〜740m)で、さすがにここには及ばないものの、有名な東祖谷山村の落合集落が標高差250mだから、こちらは優に超えている。峰集落の真ん中あたりから、峰谷最奥の奥集落を遠望できる。山の高い中腹にまとまった集落は、いままで全国の数々の山岳集落を見てきた私ですら言葉を失うほどのものである。「東京都内にこんな山岳集落があったのか」、見事な第一級の「天界の村」の存在に感動した。
 峰集落からいったん谷へ降り、最奥の集落へ登る。奥集落はまとまりのある集落で、信州遠山郷の下栗や四国山地の大宗赤松落合集落に似た美しい形態をしている。集落内に建つ民家について、峰集落が山梨県から奥多摩地方に分布するかぶと造りであるのに対して、奥集落が埼玉県群馬県に見られる切妻平入の2階建てであるところが興味深い。いずれも養蚕のために生まれた民家形態であるが、隣接する2つの集落間で民家の発展過程が異なっているようだ。

 奥集落を下る途中クルマから異音が・・・。奥集落のダート道を飛ばしたときレンタカーのタイヤをパンクさせてしまったようだ。日が暮れてゆく中、道端で手を真黒にしてタイヤ交換をし山を下った。

 

峰集落の最後部から奥多摩の山々を遠望する

峰集落の民家は奥多摩地方の形式であるかぶと造

奥集落は雛壇形式のまとまった山岳集落

奥集落の民家は埼玉県に見られる切妻2階建

奥集落から峰集落を臨む   この風景を見て誰が東京都内だと思うだろうか?
 
 奥多摩を歩いた2週間後の11月末、1泊2日で群馬県から埼玉県にかけて関東山地の山岳集落をめぐる。久しぶりに家族を連れての集落探訪だ。群馬県下仁田町から関東山地の最北部に入る。群馬県の南西部は、かつては養蚕と林業の村だった。今では両方とも廃れ、山の斜面にこんにゃくや大根を栽培している。このあたりの山村としては群馬長野の国境山脈の麓斜面に立地する南牧村の集落が面白い。勧能熊倉馬坂などがそうだが、これらの集落は山の中腹ではなく川に近い斜面に形成されているので「天界の村」とは言い難い。ところが、地形図で丹念に調べると、国境山脈から東の西御荷鉾山にかけて伸びている御荷鉾峰の南北に、山の中腹に形成された山岳集落を見つけることができた。
 
御荷鉾峰の南北にある山岳集落 
 
 下仁田は利根川の支流鏑川の上流の谷口を占める農林業の町である。下仁田の町を過ぎ跡倉の交差点から支流青倉川にそって遡って行くと周囲にはこんにゃく畑が現れる。群馬長野県境十石峠付近から西御荷鉾山へ連なる山脈の北側とあって、谷は狭まるとともに日蔭となり集落は姿を消していく。しかし、それは集落が無くなったのではなく、日当たりのよい山の中腹へと立地が移動しているのである。ここ平原集落は谷を挟んだ桑本集落や七久保集落とともに、中部日本から西日本にかけて分布している山岳集落群のおそらく北端に位置するものであろう。群馬県の山岳集落では、畑が石垣を積み上げた段々畑となっておらず、日当たりのよい斜面にそのまま広がったもので、こんにゃくや大根などが栽培されている。その姿はかつての焼畑時代を彷彿とさせるものだ。また家屋は石垣できれいに築かれたや敷地に建てられ、富岡製糸場に近い場所らしく養蚕を営んでいた農家の形態を残している。
 
 
塩之沢トンネルをくぐって御荷鉾峰の南側に出る。そこは上野村で、利根川支流神流川の最上流部の山村である。神流川にそって山間を通っているのが旧十石街道(現国道462号線)で、中山道の新町宿から分岐し、藤岡、鬼石、万場、中里、上野村を経て十石峠を越えて信州佐久へ至っている。上野村楢原は旧十石街道に面する峠下の町で、江戸時代は天領山中郷の中心だった。楢原を歩いてから旧十国街道を東へ下る。
 
 旧中里村(神流町)は利根川支流神流川の上流部の農林業・養蚕が盛んだった村である。旧十国街道から北へ分け入った八倉(ようくら)集落は、御荷鉾峰の南側に位置している山腹の集落で、北側の平原集落(下仁田町)のちょうど反対側に位置している。冬の午後2時ころ、日陰で暗い橋倉川谷を遡って行く。やがて道は斜面を駆け上るようにヘアピンカーブを描き、山腹に出て視界が広がる。谷底があんなに暗かったのに、山腹には日がよく当たっている。そこは先人達が求めた焼畑農業に適した場所だったのであろうか。

 

御荷鉾峰の北側の平原集落(群馬県下仁田町)

雛壇状に切妻平入の2階養蚕農家が立ち並ぶ

御荷鉾峰の南側の八倉集落(群馬県神流町)

かつての焼畑農耕を思わせる斜面の畑地
ここにも落人伝説あり 石間

 群馬県から志賀坂峠を越えて埼玉県に入る。第2日の最後は、掲示板に投稿のあった旧吉田町(秩父市)の石間(いさま)集落である。石間集落の背後にある城峰山(1098m)は秩父地方北部の最高峰で、山頂近くにある城峰神社には平将門の伝説がある。将門が関八州を平定した後下総に敗れ、将門の兵がこの石間ヶ岳に陣を張って城を築いたことから土地の人はこの山を城峰山と呼ぶようになったという。城峰山の麓、石間川谷には山腹に形成された斜面上集落がある。秩父地方北部の山岳集落はここ石間集落だけである。「天界の村」にはやはり落人伝説がつきものなのであろうか。
 石間の沢戸と半納は谷をはさんで互いに相対する関係にある。周囲の山々は決して高くはないが、天界度はなかなかなものだ。特に沢戸集落は斜度がきつく形態が複雑なため、歩くと奥深く楽しい村となっている。集落内の民家は養蚕を営んでいた切妻平入2階建てで蔵が多い。歴史が古く養蚕で潤ったからであろうか。
 沢戸集落の最上部まで歩いた。いままで集落に興味を示さなかった娘もオヤジと同じようにデジカメのシャッターをビシバシ押している。集落の最上部から南を眺めると、谷の切れ間に見事に武甲山が納まっている。さて、これから奥秩父最大の山岳集落に向かうことにしよう。

石間沢渡集落を谷底から見上げる

集落上端部付近にある民家

石間集落には蔵が多い
彩の国最奥の山里 旧大滝村

 旧大滝村(秩父市大滝)に着く前に日はとっぷりと暮れた。今夜は大滝の一番奥にある栃本に宿をとっている。民宿甲武信は山梨長野埼玉の三国国境にある甲武信ヶ岳の名をとった囲炉裏の宿。かつては養蚕を営んでいたこの地方の典型的な古民家である。外部建具はアルミ製に替えられているものの夜はしんしんと冷える。蚕室を改造した2階の狭い部屋で家族三人蒲団を重ね合って眠った。
 
 翌朝6時。日の出前に栃本集落を一望できる道路わきに三脚とビデオカメラを据えた。だんだん明るくなり山に日が差すまで10分毎にムービーをまわす。途中、学生の集団が朝練で挨拶をかわして通過していった。
 関東山地の中でも埼玉県奥秩父地方は山が高く谷は深く、天界の村を成立させる要件が最も整っている。旧大滝村は荒川の最上流域の山村で、谷間には斜面上の集落が点在している。特に、二瀬ダムによる三峰湖を過ぎると天界度(=集落の標高)が増す。栃本は奥秩父最奥の集落で、江戸時代は武州から甲州へつながる雁坂峠への道、信州へつながる十文字峠への道の分岐点でもあり、山越えの要所として関所や宿もあった。栃本の関所は幕末に建てられた家屋が残っており保存されている。関所前からは雁坂峠からの道がよく眺められ、取締りにふさわしい場所として選ばれたことを実感できる。栃本集落は南面した広大な斜面上に屋敷と畑が点在する形態で、一番上部を旧街道が通っている。集落は旧街道沿いから荒川に向かって下っており、下に行くと空き家が目立つ。畑は河原の丸石を積み上げたもので、地形のうねりに合わせてきれいな造形を描いている。民家は養蚕が盛んであった地域らしく、切妻平入の総2階建である。

 栃本から秩父往還を東へ戻ると
上中尾、麻生と天界の村々は続く。秩父湖の対岸は埼玉東京山梨国境の雲取山をはじめとする三峰山で、尾根の頂上には有名な三峰神社がある。その神社のすぐ下に、栃本より標高の高い三峰集落がある。ここは神社に代々奉仕してきた集落だ。
 荒川を下り三峰山の東側の大血川谷にも大血川という山岳集落がある。さらに下り、武甲山の西側の支流浦山川谷(秩父市)も探索したがめぼしい山岳集落は見いだせなかった。奥秩父の天界の村は旧大滝村の範囲内だけといっていいだろう。

 秩父から名栗村を経て東京への帰路につく。途中、第1日目に時間が無くて訪れることができなかった青梅(東京都青梅市)の町に立ち寄った。青梅は多摩川上流の谷口いあたり青梅街道の宿場であり、綿織物業地として栄えた町。上町界隈の旧街道沿いに古い町並みが残っていた。
 ここ青梅でもわが娘はカメラを片手に喜んで町並みを撮影している。集落探訪に目覚めたのか?まさか。写真に目覚めたのだろう。これからもこうして付き合ってくれればよいのだが・・・。

民宿甲武信 囲炉裏を囲んで食事をする宿

栃本集落 最初に訪れたのは1995年

麻生集落は秩父湖を見下ろす天界の村(2005年)

三峰神社付近から麻生(手前)栃本(奥)を臨む

三峰は三峰神社に代々奉仕してきた集落

青梅は旧街道沿いに蔵造り塗籠造りが並ぶ

奥秩父の栃本集落(2005年初夏)
現在の秩父往還は雁坂トンネルであっという間に甲府盆地に抜けられる

 
 1986年に始まった「天界の村」探訪の歴史は以下の通りである。

  長野県遠山郷     1986年 2000年 2004年
  静岡県水窪町周辺   2000年 2004年
  紀伊山地       1994年
  四国山地東部     1988年 1995年 2007年
  四国山地西部     2007年
  九州山地       1995年 2003年
  関東山地       1995年 2006年 2007年

 もっと早く終わっていて良さそうなものであるが、その間いろんな分野に興味が拡大してしまったため、原点である山岳集落探訪に20年もかかってしまった。今年こそ完結させようと決心し、春に四国山地西部の探訪と東部再訪を行い、この秋に地元関東山地を歩いた。関東山地では、以前から知っていた奥秩父だけであろうと思っていたが、地形図をしらみつぶしに探してみたら群馬県下仁田町から東京都奥多摩町にかけて他にもあるわあるわ。そして訪れてみると予想を上回る天界度の集落が目白押し。特に東京都奥多摩町峰谷の峰・奥集落には驚かされた。まさに灯台下暗し、地元東京に第一級の天界の村があったとはビックリである。まだまだ修行が足らないなぁ。

 これで「天界の村を歩く」シリーズを終える。ちなみに、全6話に掲載した画像は20年間に撮影したものからピックアップした。

 さて、次なる企画をどうしようか。今度は海にするか、あるいは一転して都市の町並みをやろうか。2008年も「日本美集落探訪」をヨロシク!!