天空の村を歩く
第1話 南アルプス  大鹿村〜上村
 
原点
 
私が集落や町並みにひかれはじめたのは、学生時代に信州を旅してからである。それは、北アルプスを背景にした安曇野の集落であり、黒い城と白い蔵のある松本のまちであり、生活の息づく歴史的な町並みの残っている奈良井宿であった。同世代がこぞって海外旅行へ出かけるような時代に、私は国内の集落町並みをひたすら歩いていた。なぜかというと、日本ほど多様な気候風土を持ち、国土の隅々至るところにまで人が住みわたっている国は他に無いと思うからである。


信州は日本全体の縮図のように思える。太平洋へ日本海へと流れる川は谷を形成し、谷を通う街道は人、もの、情報をもたらす。信州では谷ごとに下流域の文化との関連が深く、民家の形や方言も異なる。私は、学生時代の最後に信州を徹底的に巡ることにした。八ヶ岳、日本アルプス、戸隠、安曇野、善光寺平、木曽谷、伊那谷、秋山郷など、長野県内のほとんどの市町村に足を踏み入れた。そして、一連の信州紀行の最後に、秘境と呼ばれていた「遠山郷」を訪れた。

ここで出会ったある集落が、その後私に、途方も無い「集落町並みWalking」の旅をはじめさせるきっかけとなった。


秋葉街道
 
南アルプス(赤石山脈)と中央アルプス(木曾山脈)の間に伊那谷がある。伊那谷から中央アルプスを眺めると主峰の全貌を間近に見ることができるが、南アルプスの主峰は高い山の頂しか見えない。それは、南アルプスが中央アルプスや北アルプスと違って山深いためである。前衛の伊那山脈と南アルプスとの間には細い谷が南北に続いており、谷に沿って秋葉街道(現国道152号線)が通っている。

1985926日の早朝、私は上諏訪から杖突峠を経て城址公園の桜で有名な高遠に入った。ここから初めての秋葉街道を南下する。秋葉街道は、かつての塩の道、信仰の道で、高遠から分杭峠、地蔵峠、青崩峠などを越えて秋葉神社に通じる。青崩峠には近年トンネルが開通したがそれ以外にトンネルは無く、通過幹線としての整備がなされていないため、かつての街道の面影を色濃く残している街道である。

高遠から美和湖のほとりを抜け、長谷村から分杭峠を越えると谷が開けた大鹿村に出る。大鹿村は西日本を縦貫する中央構造線という大断層が地表に露出しているところで、土砂災害の耐えない場所でもある。山の斜面の集落や田園の中に本棟造り民家(重文松下家、江戸後期)が見られる。鹿塩や小渋湯などの温泉があり、農村歌舞伎も伝承され残っている。

街道を南に進むと谷はまた狭まる。街道沿いにはかつて道行く人を相手にしていたのだろうか、商店らしき民家が残っていた。地蔵峠を越えると目的地の遠山郷だが、国道は峠の前後で分断されているため蛇洞林道で迂回することとなる。林道は途中しらびそ峠へ道を分岐している。しらびそ峠は、3000m級の南アルプスの主峰が眺められる大パノラマ展望台である。手前の遠山川の深い谷が山をより高く見せている。紅葉で山は褐色に染まっていた。分岐点までひき返し、林道を下るとそこは遠山郷だ。



田園の中に建つ本棟造り民家(大鹿村)


斜面に建つ民家(大鹿村)


秋葉街道沿いの商家(大鹿村)


しらびそ峠から南アルプス主峰を臨む

遠山郷

遠山郷は、現在の南信濃村、上村で、東を3000m級の南アルプス、西を1800m級の伊那山脈、北を1300mの地蔵峠、南を1000mの青崩峠という隔絶性の強い谷である。谷は地質上日本を外帯と内帯に分ける中央構造線がとおり、谷形は壮年期または晩壮年期、山腹は20度から40度の急斜面で氾濫原は極めて少ない。

 遠山の名のおこりは、周辺のどの国からも遠いという意味で、この辺りの山岳地域を呼ぶ総称であったようだ。鎌倉時代、地頭から起こってこの地方の実権を握った豪族遠山氏は、近世に入って和田(南信濃村和田)に城を築き統治した。日本三大奇祭のひとつに数えられる遠山郷の「霜月祭」は、不運な死を遂げた遠山様の怨霊を戒めるためともいわれている。江戸時代は幕府が豊富な森林資源に目をつけ天領とし統治した。明治以降は、主に林業で栄えた。

農業としては、水田が極めて少なく畑作が中心である。畑は山畑が多く
2040度の斜面を耕作しており、斜面が急な割りには石垣を造らないゼリ畑という等高線耕作を行っている。かつては焼畑を行っていた。


出会い

遠山郷入りした私は、まず南信濃村の役場を訪ね、郷土史家の方を紹介してもらった。村の郷土史家後藤氏のお宅は南信濃村の中心、和田の町家だった。古い民家が残っていないか訊ねたところ、「遠山郷には古い民家はあまり聞いたことが無いが、珍しい集落なら上村にあるそうだ。」といって上村の郷土史家山口氏を紹介してくれた。私は、今来た秋葉街道を上村に戻った。

 上村の中心、上町にある小学校の近くで、農作業をされていた山口氏に声をかけた。「その珍しい集落は、小学校の裏の細い道を入って
20分ばかり走っていくと見えてくる。下栗という山の尾根の上にある珍しい集落だ。一番奥には大野という最も古い集落がある。宿は無いが「井戸端」という屋号の家に頼めば泊めてもらえる。野営するなら集落の一番上にある分校の校庭がいい。」と、山口氏は親切に教えてくれた。

もう日が暮れてしまった。車がすれ違うことができない程細い山道をひたすら登っていく。中根という小さな集落にさしかかった時、あたりはすっかり暗くなってしまった。この先に本当に集落があるのだろうか、段々心細くなってきた。しばらく走ると、正面の黒い山に立体的な明かりが点々としているのが見えてきた。あれが下栗集落のようだ。集落に入ると、道は連続したヘアピンカーブでひたすら下っていく。暗くて民家は見えず、分校の場所もわからない。結局、先の小野という集落付近まで行き、なんとか道端の平らな場所を見つけテントを張ることができた。

翌朝、激しいブルドーザーのエンジン音で目がさめた。平らな場所はどうやら道路工事の資材置き場だったようだ。慌ててテントを片付け、昨晩走った道を戻る。すると、木立の間から視界がぱっと開けた。そこには、今まで見たことのない「天界の村」が姿をあらわした。



遠山谷(上村)


下栗本村の集落(小野から見る)


半場から南アルプス聖岳を望む(本村)


下栗

上村には、秋葉街道沿いに栄えた上町、上村川沿いの程野、中郷、そして炭焼山(1553m)の山腹遠山川に面する斜面上にある下栗がある。下栗は奥(上流)から、大野、小野、屋敷、本村からなり、本村が最も大きい集落である。本村は、最下部の家が標高約870m、最上部の分校で標高約1070m、高低さ約200mの斜面集落で、20度から30度の南向き緩斜面にへばりつくように形成されている。直下の遠山川が標高570mだから、谷底から300500mの高さになる。超高層ビルに換算すれば、横浜ランドマークタワーの上に60階建てのマンションをのっけてそこに住んでいる感覚である。集落から東方の南アルプスを見ると水平に見える状態で、西側の山は低いから太陽が足元に沈む。

本村集落のちょうど中間レベルに、下栗部落で「霜月祭」が行われる正八幡神社があり、その下に井戸端という屋号の家がある。集落は井戸の周辺から発達したと言われているから、井戸端近辺が最も古い場所と思われる。一般に、神社は集落の最も上にあるので、神社より上の半場集落は新しいのかもしれない。つまり、下に伸びていった集落がこれ以上拡大できず、神社の上が宅地化されたの可能性が有る。また、神社の下の民家には倉があるが、上の民家には少ないことも関係しているかもしれない。

民家の主屋は、倉などの付属屋とともに等高線に沿って一直線に並ぶ。主屋は切妻平入りでかつては板葺石置き屋根だったが、いまはトタン葺きで石の替わりにタイヤを乗せた家も見られる。主屋の谷側(南側)には細長い前庭があり作業場となっている。前庭の先端にはハザと呼ばれる作物の干し場があるが、谷から吹き上げる風除けの機能も果たしている。主屋の山側は、斜面ゆえ屋根が地面に接するので、ネコビサシと呼ばれる庇で屋根と地面の間をふさいでいる。


半場から谷方向を見る(本村)


等高線に沿って細長い民家(本村)


斜面のため屋根が地面にくっつく(本村)

本村で最も古いと思われる場所 井戸端


井戸端にある秋葉信仰の石碑(本村)


本村では井戸端より下に倉をもつ家が多い



本村の民家 画家が所有している聞いた


下栗分校 現在は無くロッジが建っている(本村)


尾根の上を通る旧道
屋敷・小野・大野

本村の最下部から道はさらに上流方向につづく。屋敷・小野集落は本村と比較すると小規模だが、斜面にへばりつく民家の風景が美しい集落だ。

大野は最奥の集落で、斜面にうずまるように4軒の民家がある。山岳集落の原型を見るようである。集落の起源については、平家の落人伝説、甲斐の国からの移民説など諸説がある。大野に住みついた者が本村に次第に移っていったといわれる。最初に訪れた時、道路は集落の下で終わっており、各家には歩いて登らなければならなかったが、数年後道路が作られ各戸が接道した。だれも住んでいない家へ。



小野の集落


斜面に建つ民家(屋敷)


前庭は谷側に細長い ハザという干場がつく(小野)

等高線に沿って一列に並ぶ家屋(小野)

道路がつく前の大野 山岳集落の原型だ


大野の民家



道路がついたころの大野

中央構造線と西南日本外帯山地

この下栗集落をはじめて見たとき、大自然と人間が創造した集落の姿に大変感動した。その一方で、どうしてこのような場所に人が住みついたのだろうかと疑問を持った。平地のしかも自動車時代に生きる現代都会人の感覚では信じ難いが、農林業を生業とし徒歩時代で考えれば、山の上に住まうことは実は理にかなっているのかもしれない。

というのは、このような斜面上山岳集落は他にもあるからだ。有名なフォッサマグナ(静岡糸魚川構造線)が日本列島を横断しているのに対して、秋葉街道と重なる中央構造線は西日本を縦貫している。茨城県の大洗付近を始点として関東地方を横切り、諏訪湖でフォッサマグナとクロスしたのち秋葉街道と重なって南下、渥美半島から紀伊半島へ渡り、四国、九州を貫いて熊本県の八代辺りが終点といわれている。その中央構造線の太平洋側には、西南日本外帯山地と呼ばれる谷の深い山国だが、その地域と斜面上山岳集落の分布が見事に一致している。つまり、関東山地の奥秩父地方、伊那の遠山郷、静岡の天龍川流域、紀伊山地の十津川郷、四国山地の剣山や石鎚山周辺、九州山地の椎葉・米良・五家荘など、いわゆる秘境と呼ばれた地域である。

 さて、この下栗から、天界の村のすばらしい風景と謎を追って、西南日本の山岳集落を訪ねる旅をはじめることとしよう。

 


中央構造線と斜面上山岳集落の分布