清里 高原リゾートブームが生んだ昭和末期の町並み

山梨県
高根町
清里

八ヶ岳高原の中から清里がブームの中心に選ばれたのは、清泉寮と八ヶ岳の日本離れした風景があったからである。

KEEP協会(清里農村センター)内にある聖アンデレ教会(内部は畳敷き)

清里駅前に突如つくられた商店街。「高原の原宿」と呼ばれ、昭和末期に空前のブームがあった。いまではトップシーズンでもかつてのごった返した人込みは見られない。

メルヘン様式とでも言うデザインの建物が次々に建設された。

店の中にはあまり人気はない。完全にブームは去った。中には空き家の店舗も見られる。

有名なミルクポットの店。最盛期は駅前通りから東へ向かう通りも店が造られていたが、今ではブーム前のひっそりした状態に戻っていた。

メルヘン建築にも錆が・・・。つわものどもの夢のあと。

keep入口前にあり、さだまさしの歌にも出てきた喫茶店MILK。道路拡張のため取り壊されていた。
清里は山梨県の北西部、八ヶ岳南東麓の高原上の単なる農村であった。付近の念場原は高冷地農業開拓地で、高原野菜栽培とと酪農が主産業であった。。
高度成長期の終わりに、「日本列島改造論」が土地ブームに火をつけ、八ヶ岳山麓はポスト軽井沢の避暑地として、次々に別荘地が開発された。中でも清里は、明治時代より「清里農村センター(KEEP協会)」があり、八ヶ岳をバックにした清泉寮や牧場の日本離れした山岳風景が「日本のスイス」と呼ばれ、イメージのいい高原リゾートの中心地として発展していく。

キープ協会は、1948年に故ポールラッシュ博士によって創設された農村センターである。1938年に建設された清泉寮はその中心施設であり、やがて清里のシンボルとなった。協会内には聖アンデレ教会があり、外観は洋風ながら内部は畳敷きという、日本の農村に根ざそうとする工夫が見られる。

農村開拓、リゾート地としての開発という歴史を辿ってきた清里は、昭和50年代に訪れた空前の清里ブームの中で見る見る姿を変えていく。清里駅は白亜の建物に建て替えられ、駅前に次々とメルヘンチックな建物が建設されて、そのころ東京原宿竹下通りで起こっていた現象
と同じように高原の町の町並みを変えていった。シーズンは人で溢れかえり、通りは大渋滞の状態が毎年つづいた。しかし、バブル崩壊頃を境にブームは下火になっていく。

清泉寮も観光目的にアイスクリームショップや土産物屋などが前庭に何度も建て替えられた。有名なジャージー牛乳で造られたアイスクリームは1階の喫茶店の単なる1メニューに過ぎなかった。やがてアイスクリームは別棟で売られ、しまいには喫茶店も土産物屋に変わってしまっている。

「人が集まる→交通量が増える→道路を整備する」、の法則は清里でも同様で、ちょっと前に整備された道も数年後無くなって別の道路が整備されたりとめまぐるしい。国道141号線の拡幅とバイパス化、市街地内の道路整備、有料道路の整備は、ブームのきっかけとなった美しい風景やブーム以前の高原リゾート初期に建てられたしゃれた店をすべて消してしまった。KEEP敷地内を有料道路は横断し、国道141号線沿いにあった山小屋風のレストラン「ロック」やさだまさしの歌にも出てきた喫茶店「MILK」は道路拡張により姿を消した。そして極めつけは鉄道写真で有名な、平沢峠から見た八ヶ岳をバックにした小海線の風景。背後に国道141号線のバイパスが走り、手前にはゴルフ場が・・・・。
残されたものは、駅前に形成された昭和末期の町並みのみである。

交通

JR小海線清里駅下車

国道141号線


清里

清泉寮
参考資料 リンク
高根町
キープ協会

参考文献