雑司が谷 明治大正期 畑の畦道が街路となった住宅地

東京都
豊島区
雑司が谷
1,2



交通

地下鉄有楽町線護国寺駅、JR山手線目白駅、都電荒川線鬼子母神駅下車徒歩






雑司が谷




2004.09.05
江戸時代、護国寺は江戸の北西端。そこから先は農村であった。明治末期、山の手台地の上の畑地の真ん中に教会と宣教師の家ができ、周りの農村は東京郊外の住宅地として宅地化がすすんだ。昭和初期にはすっかり住宅地として東京西縁の市街地を形作っていたが、その街路線形はその前の畑の畦道のままであった。
したがって、雑司が谷を歩いて見るとなかなか町の構成が頭に入らない。まちの真ん中にある「旧宣教師館通り」以外は一本たりとも真っ直ぐな道が無い。旧宣教師館通りは元々はひろい教会関係者の敷地であったが、宣教師宅の洋館を曳家し、真ん中に道を通して半分を売ったため、通りは真っ直ぐなのであった。
高い樹木のある家が面する地形に従ってうねっている道こそ最初の住宅地の通り。戦後は土地が細分化されたためさらに複雑化している。高い樹木がある敷地には古い邸宅がまだ残っている。東京山の手の戦前の郊外住宅地の雰囲気が味わえる静かな町である。

旧宣教師館に展示されている明治末期の雑司が谷の模型。画像中央やや右の大きな3棟が「教会」「宣教師宅」「幼児学院」である。かつての畑の畦道がそのまま住宅地のメインストリートになっていく様子がわかる。

アメリカ人宣教師マッケーレブの旧宅。明治40年の木造2階建、シングル様式という下見板貼りの外装で、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の造り。(右上、上)

教会関係の敷地はその後半分が売られた。(左)

雑司が谷の古い住宅は、和風洋風が混ざっている。

台地の南斜面近くは眺めと日当たりが良い場所のため、大きな屋敷が多かったのであろう。(上)

割と早い時期に敷地分割化が進んだと見えて、分割された敷地にも割りと年季の入った住宅が建っている。(右)

玄関脇に洋風応接間を設けたり、開口部にモダンなデザインが見られるなど、戦前の山の手の住宅地の雰囲気は残っている。(左上、左)

大きな敷地の奥に貸家などが建っている。(上)
雑司が谷から目白にかけては戦災を受けていない街。台地の下にも戦前の住宅が所々残っている。
都電荒川線の鬼子母神駅。
参考資料 リンク
豊島区

参考文献