吉原 江戸東京きっての遊郭 ソープとカフェーの町並み

東京都
台東区
千束3,4丁目




交通


地下鉄日比谷線三ノ輪駅、入谷駅下車


どて通り





新吉原





2002.01.02
 「全国遊郭案内」(昭和4年)より引用する
 全国で何千とある遊郭の其の総てが湯女または飯盛女の進化した者であるが、東京の吉原と京都の島原だけは、最初から遊女屋として開業されたものである。(中略)最初に遊女屋を開業したのは庄司甚左衛門又の名を大阪小甚内という人で、慶長18年、今より約320年前に今の日本橋芳町へ開業した。その処はさびしい墨田の川岸で、四辺は一面葦原だったので名も芳原と命名したという事である。その後元和3年の火災にあい、直ちに同年3月現在の吉原に移転して今日に至ったものである。(中略)吉原の現勢としては、引手茶屋が45軒、貸座敷業が295軒、紅唇の娼妓が3560人働いている。震災後の建物は半永久的なものであるが、震災前の物に比べ何れも皆近代味を取り入れて、何処も彼処も明るい感じのする純日本風の建て方が何よりも悦ばしい傾向である。・・・

 その後戦災で全焼した吉原は、戦後は一時、進駐軍向けの施設がつくられ、進駐軍撤退後は赤線のカフェー街となり、現在のソープ街と移行した。江戸時代は中心市街から船でアクセスしたため山谷堀側に大門があった。街区は中央の大通りである中之町通りを軸に大門側から見て右側手前から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左側手前から江戸町二丁目、角町、京町二丁目と配置され、中之町通りの奥に吉原神社という構成である。
 現在の吉原は、近年建て替えられたソープランド店が表通りを占める一方で、戦後のカフェー街時代の建物を町中に散見できるという町並みである。
江戸時代、山谷堀を通って吉原にアクセスした。現在は地中化され公園となっている。
新吉原遊郭鳥瞰図。右下が吉原大門で遊郭の入口、左上が吉原神社。仲之町通りを中心に整然と区画された新地であることがわかる。(上)


仲之町通り。この通りに面して風俗店は無い。(左)
仲之町通りに直行する京町2丁目通りのソープランド街。早朝から営業しているので、早朝の町並み探訪でも呼び込みのおにいさんから声を掛けられる。(左)


揚屋町通りにある現役の坂井旅館。(左)
揚屋町通りと江戸町1丁目通りの間にカフェー街時代の建築が見られる。
左上の写真の建物の側面。カフェー街建築には曲線が多い。(左)
揚屋町通りと江戸町1丁目通りの間
吉原神社(千束3丁目)。
千束3丁目は新吉原内ではないが、カフェー街建築が見られる
参考資料 リンク
台東区


参考文献
「赤線跡を歩く」木村聡