洗足 大正期に開発された東京の先駆的な郊外住宅地 

東京都
目黒区
洗足2

品川区
小山7
旗の台6




交通

東急目黒線
洗足駅下車


環状7号線
北千束





洗足




2003.11.23
大正から昭和にかけて、電鉄会社や信託銀行によって多くの郊外住宅地が開発された。東急沿線の桜新町、洗足、田園調布、日吉、中央線沿線の国立、東武線沿線の常盤台などがそうである。これら郊外住宅地が開発された背景には、東京のスラム問題、欧米の田園都市の影響、新中間層の誕生があったといわれている。その先駆的役割を果たしたのが渋沢栄一の築いた田園都市株式会社である。同社は、有名な田園調布(大正12年)より前の大正11年に洗足を郊外住宅地として開発分譲した。
洗足は田園調布のような放射環状という特徴的な街区割りでは無く、その後開発された周囲の住宅地と連続しているためどこまでが当初開発されたエリアなのわかりづらい。住所が目黒区洗足と品川区小山、旗の台にまたがっているのもわかりづらくしている原因である。しかし、郊外住宅地は台地上を好んで開発されたので、起伏を手がかりに歩くと当初の住宅地の全体像が見えてくる。
洗足には建築制限が設けられており、洋風建築地域、3階以下、建蔽率50%以下、建築線は道路幅の2倍以上、工事単価最低限度などの制限があったという。現在の洗足は、戦災を受けたこともあってあまり戦前の住宅は残っていない。しかし、宅地の細分化は避けられないとしても、今や東京では珍しくなりつつある純粋な戸建住宅地の佇まいを見せている。
洗足会館
洗足駅から東急目黒線沿いに谷へ下ったところにある洋風建築。
地元住人の集会所として昭和6年に建てられたもの。玄関部分の2本組のオーダー柱が、アーチのある窓、円形の部屋など、当時の洗足の洋風建築を知ることにできる貴重な存在である。結構痛んでいるが、住民のコミュニティの場として活用されているようだ。
小山7丁目の一画には、建築制限が理解しやすい、前庭をもった建築線のそろった町並みが残っていた。
旗の台6丁目の環状7号線近くの住宅。画像からわかりづらいが、和風2階建てで、前面が洋風の応接間となっている。
住宅は新しいが前庭を持って主屋が引っ込む配置は踏襲されている。しかし、セキュリティからか塀や門が頑丈で高い屋敷構えが増えているようだ。
洗足駅から旗の台方向へ延びる通りに面して残っていた洋風住宅。
洗足2丁目の交差点から目黒本町へ抜けるバス通りに面して残る出梁造り町家の酒屋さん。
しょっちゅう車で通っていた道だが、歩いて初めて発見した。
参考資料 リンク
大田区


参考文献