父島 本土から1000km離れた絶海の楽園

東京都
小笠原村
父島





交通
東京竹芝桟橋よりフェリー




大村
扇浦





2019.11.22
東京の南南東約1000kmにある小笠原諸島最大の島。2016年7月に就航した新造船おがさわら丸」で東京から24時間。1639年オランダ船によって初めて発見されたと言われている。ほかにも1543年のスペイン船発見説、また文禄2年(1593)信州深志城主の小笠原貞頼の発見・上陸という説もある。寛文10年(1670)に阿波国のミカン船が母島に漂着、のちに父島を経て帰国したことから、幕府は5年後に島谷市左衛門らを派遣し、実測図などを残している。長崎に渡来したドイツ人医師ケンペルは、この無人島の記録を著書「日本誌」(1727)で紹介している。また、天明5年(1785)には経成学者林子平の地理書「三国通覧図説」にも記された。19世紀に入るとイギリスやロシアの捕鯨船・探検船が来航している。実際の開拓は天保元年(1830)ナサニエル・セーボレーら5人の欧米人と20人のハワイの人々の入植によるもの。嘉永6年(1853)にはペリーが来航している。文久元年(1861)幕府は小笠原島の帰属を諸国に通告、外国奉行水野忠徳を臨海丸で派遣している。翌年には八丈島から30人数人が入植、国内外の事情により全員が一旦引き揚げるものの、明治9年には日本領と確定し、再び入植が始まった。戦前は野菜・花栽培、カツオ・マグロ漁などが主に意図まれていた。戦時中は海軍飛行場などが造られ、昭和19年には住民のほとんどが本土へ強制疎開、戦後21年にはアメリカ軍統治下で欧米系住民120人余りの帰島が認められたが、ほかの住民は昭和43年の日本返還まで帰島が帰島が許されなかった。昭和47年に国立公園指定され、平成23年6月には世界自然遺産として登録された。世界的にも珍しい動植物が多く、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれ、ダイビングなどのマリンスポーツやホエールウォッチングなどの拠点としても注目を浴びている。(「シマダス」参照)
東京港竹芝桟橋と父島とを24時間で結ぶ「おがさわら丸」。新しい船内はとても快適。
出航した翌朝東方向に並ぶ島々は小笠原諸島の聟島(むこじm)列島。
父島本村地区
小笠原村の行政経済の中心地。二見湾の北岸の平らな土地に大村地区の集落が形成されている。
海岸線に平行した3本の通りを基軸に町割りが構成される。
父島本村地区
東町海岸通りの町並み。建物は戦後の新しいものが多く、ペンションやスーパー(2軒)、土産物屋が並ぶ。
父島本村地区
西町は最初に集落が形成された場所。ハワイなどから移住した人々が住み始めた。

父島本村地区
東町海岸通りの町並み(左上)。

村役場前のモニュメント(上)。沖ノ鳥島のほうが本土よりまだ遠い。

西町海岸通りの町並み(左)

西町の教会。戦後小笠原は米軍の統制下に入った。その中で帰島が許されたのが欧米系の住民である。戦前からあった教会が失われていたため、新たに建てた。

 
父島本村地区西町
気象庁父島観測所。
父島本村地区西町
海岸通りの突き当りにある海上自衛隊父島基地分遣隊。町の端部でもある。
父島本村地区東町
海岸通りから1本陸側に走る「ボニン通り」という飲食店街。和洋中のレストラン、居酒屋、カラオケ屋など一通りそろっているが、非常に静か。
父島本村地区東町
大神山神社下の民家(上)。戦前の古い写真にも写っていたので、数少ない返還前の住宅と思われる。

大神山神社の土俵。岩を削った円形劇場のようになっている。
大村と奥村とを結ぶトンネル内にある大きな木戸。トンネルが防空壕として使われていた名残。
旭山山麓から眺めた二見湾。手前が奥地区で、湾口に近い方が大村(上)。

開拓前の住居の模型(ビジターセンターにて)(左)

二見湾南岸にある扇浦地区。明治政府は明治9年に小笠原を日本の領土であることを核国に通知し、ここ扇浦に内務省出張所を建てた(下)。

奥村と扇浦との間は今朝しいため以前は道路がなく、大村との間を船で行き来していた。その時の桟橋が残っている(上)。

北袋地区の農村。小笠原村で一番大きな農地という(左上)。

兄島と兄島瀬戸(左中)。

父島・母島には随所に戦跡がある(左下)。
参考資料 リンク
小笠原村

参考文献
「シマダス」日本離島センター