三宅島
阿古
災害と復興の島 溶岩流を逃れた集落と旧港町

東京都
三宅村
阿古
伊ヶ谷






交通
竹芝桟橋より東海汽船さるびあ号






三宅島阿古


三宅島伊ヶ谷





2016.06.11
東京の南約180kmの太平洋上に位置し、雄山(813m)を中心とした、東西7.5km、南北8.6kmの火山島。自然環境に恵まれ、緑も豊かで、バードウォッチング、磯釣り、ダイビングのポイントが数多く点在する。そして最近ではイルカウォッチングも加わった。江戸時代は流刑の島となり、1400人ほどが流されている。約50年おきに大噴火を繰り返している活火山で、昭和58年10月の噴火で、南西部の阿古集落が溶岩で埋まり、火山湖沼の新澪池も様相を一変させている一方で、天然記念物アカコッコなどバードサンクチュアリの名に恥じない花と鳥の島だ。(「シマダス」より)
阿古は島の南西の位置にある。阿古地区の住民は、いち早く観光産業に着目し、自然の恵みを巧みに利用して島内唯一の温泉郷を築き上げ隆盛を極めていた。昭和58年10月3日(1983年)、大音響とともに二男山を吹き飛ばした噴火は膨大な量の溶岩を流出し、山谷を埋め尽くし、眼下一帯に広がる阿古集落を襲った。19haにのぼる溶岩原の下には約400戸の民家が埋没しており、海岸沿いに難を逃れた人家が僅かに往時を偲ばせている。
伊ヶ谷集落は、江戸時代からの港町である。元和9年(1623年)徳川家光が三代将軍を継いだ年、幕府は伊ヶ谷大船戸湾が自然に恵まれた良港であることから、御用船の取り扱いを開始した。伊ヶ谷村はこれを契機として三宅島交通の要衝となり、御用船の出入港を管理監督するために享保8年(1723年)に至って陣屋が設置された。陣屋は、大船戸湾普請に要する普請米や万一の事態に備えての幕府備蓄米を収納するなどのために設置されたが、その後幕府から流刑者などが増加したため地役人が常駐するようになり、時には関所のような役割を果たすことになった。
1983年噴火による災害を受ける前の阿古地区(上)

被災した現在の旧阿古地区(左)
海岸沿いに溶岩流から逃れた集落が継続している。阿古集落の主体は、やや南部に移動した。

1983年噴火の前(左)と後(上)
溶岩流を堰き止めるように建物が残った旧小中学校の校舎
1983年噴火の災害を逃れた集落
1983年噴火の災害を逃れた集落
1983年噴火の溶岩流の先端と災害を逃れた集落
1983年噴火の災害を逃れた集落
かつての目抜き通りに面していたと思われる商店
1983年噴火の災害を逃れた集落
1983年噴火の災害を逃れた集落
1983年噴火の災害を逃れた集落
1983年噴火の災害を逃れた集落
伊ヶ谷地区の町並み

切石を積み上げた石垣石塀は大きな屋敷の後か(左、左下)

伊ヶ谷集落の町並み
古い石橋(上)
急傾斜地の尾根上に形成されている伊ヶ谷集落の石垣(左下)
参考資料 リンク
三宅村

参考文献