藍住 青石垣の上に棟を並べる藍屋敷の点在する集落

徳島県
藍住町
徳名





交通






藍住



2012.05.06
細川・三好両氏の戦乱で荒廃した阿波に入府した蜂須賀氏は、領民のために新田開発を進めた。平地では藍を、海では塩を、山では煙草を、土地の特性に合わせて特産物の増産を図った。吉野川の支流に囲まれた板野の中島地域は、沖積湿地で藍作りに適した土壌でもあったので、寛永から正保年間(1644〜48)にかけて名西、名東の地域と共に盛んに栽培された。その後、10年で「藍園28ヶ村」といわれ、急速に普及した。藩は、藍作によって財政を潤すために専売制を実施するようになり、一部の特権的な藍師は次第に、その葉藍を発酵させて「藻(すくも)」を作り、臼でついて藍玉をつくるだけでなく、それぞれの地方の販売権を持つようになった。特に享保3年(1718年)以降、関東、大阪、ならびに五機内、諸国の販売株ができ、その販売精度によって阿波藍の名をほしいままにし、阿波大尽の名を高めた。
このような藍師の屋敷は、「四国三郎」と呼ばれる吉野川の洪水や氾濫から守るため、青石で六尺も石垣を築いて造成された。その屋敷構えは、藍師が裕福になるにつれて、「藍師の住まいは城構」と呼ばれるようになった。多くは、南面して石垣の上に開いた長屋門に続いて土蔵や「ねどこ」と呼ばれる葉藍を発酵させる小屋や納屋が主屋を中心にして、周囲に建ち並んだ屋敷構になっている。(「図説日本の町並み10」より)
旧奥村家住宅徳名前須)
後悔されている藍屋敷
藍住の藍屋敷集落徳名前須)
藍住の藍屋敷集落徳名前須)
藍住の藍屋敷集落徳名前須)
藍住の藍屋敷集落徳名前須)
藍住の藍屋敷集落徳名前須)
藍住の藍屋敷集落
参考資料 リンク
藍住町

参考文献
『図説 日本の町並み10 四国編』 太田博太郎他 第一法規