塩田 肥前焼積出の河湊で栄えた長崎街道の宿場町

佐賀県
塩田町
塩田



交通

JR長崎本線肥前鹿島駅下車バス


国道498号線




塩田




2003.12.29
塩田は、元禄年間から鍋島氏の所領となり、寛永16年(1639)より鍋島直澄公が蓮池藩塩田郷の大部分を治めた。長崎街道に形成された塩田宿は、塩田川を河湊とした水陸交通の要衝となり繁栄した。嬉野・吉田・有田・志田をはじめとする肥前焼の積出港として、また肥前磁器焼成に必要な天草陶石の荷揚港として、塩田は伊万里に並ぶ焼き物の町であった。
宿場町は、旧街道に沿った南北約1kmで、国道は塩田川の東側に迂回している。町並みは、北部九州らしい妻入りと平入りの混在したもので、江戸時代後期から明治・大正期のものが見られる。街道の東側の商家は、背後の塩田川で荷を積み降ろすため、敷地の裏手に倉や土間を持つものが多い
東側(塩田川側)の町並み
重要文化財である西岡家(画像左端)のあるあたりは町の中心部らしく大きな商家が多い。入母屋妻入の町家は表側(妻側)の屋根を大きく葺下ろして間口の広い平入町家のように見せている。

西岡家はこの地域の屈指の豪商であり、屋敷は19世紀(江戸末期)の中ごろに建てたものと推定される。建物は間口6間、奥行き9間半で切妻造り、屋根組みは出入が多く複雑である。屋内は東側が通り通り土間、西側は8室が並ぶ。表側の店と裏の座敷は西に突き出した配置となっている。店表側の間仕切りは、ガラス戸に改造されているが当時は上げ戸であり、軒を支えるおおきな持送りには地方の特色が見られる。

くど造りの町家
くど造りの民家は農家だけでなく、町家や武家屋敷の主屋にも見られる、この地方独特の形式。梁間制限によって生まれたとされる。
左の建物は、昭和中期に建てられた天草陶石の検量所。
棟を2つに分けた珍しい造りの町家
上の町家を裏側から見る。奥行きの深い敷地で、奥行きの深い主屋のためにこのような2つ棟になったのだろうか。
2階が洋風の町家も見られた。2階全面の建具が再度に回り込んでおり、長崎あたりで見られるバルコニーを室内化した住宅ににた構成。
参考資料 リンク
塩田町

参考文献
『図説 日本の町並み11 北九州編』 太田博太郎他 第一法規
『日本の町並みU 中国四国九州・沖縄』 西村幸夫監修 平凡社