日立 理想鉱山都市の実現を目指した大産業町

茨城県
日立市
弁天町
白銀町
宮田町





交通
JR常磐線日立駅下車




日立銀座通り


日立白銀町


日立宮田町





2013.03.02
2016.12.30
日立は、中世は佐竹氏の支配下、近世は徳川水戸藩領となった。その地名は、徳川光圀が朝日の立ち上る景勝を領内随一とたたえたことに由来する。陸奥国への関門として交通上の要所であったが、幕末には海防上の要地とされ、助川に土塁が築かれた。そして、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山を開き、宮田川沿いに上から採掘、選鉱、製錬、電錬の事業所を置いてから鉱山町が発達した。銅、金、銀、硫酸を生産して鉱工業都市の基礎を築いた。日立は大戦の度に発展し、1955年ごろまでが最盛期であった。1976年に銅の精錬をやめた。鉱山技師の小平浪平は鉱山機械修理工場を1920年(大正9年)独立させて日立製作所を創立した。電線、発電機、モーター、家庭用電気製品、絶縁物などを生産する工場群が常磐線沿いに発展している(Yahoo百科事典より)。
日立鉱山は、創業者久原房之助により「一山一家」の鉱山、「自然・地域と共存共栄する理想鉱山都市」の実現を目指し、あらゆる社会政策の整った理想鉱山社会という夢を抱いた。学校、病院、供給所等、生活環境の整備など教育、医療、福祉、生活関連施設の整備を行い、日立鉱山の福利厚生視閲は、他山から大いに注目された。別子、足尾、小坂と共に4大銅山は、大正3年位は煙害防止のため世界一とうたわれた155.7mの大煙突を建設した。そして、山の麓に町が形成され、煙害対策費が削減できたこともあり、大正初期、鉱山労働者や家族の慰安・娯楽の施設として二つの銅山劇場が建設された。その一つが、白銀町にある共楽館(大正9年築)である。日立の施設は、日立駅から現在の白銀町との間に走っていた無賃電車に沿って存在しており、銀座通り商店街もそれに平行して形成されている。

日立の施設は、最も高い採掘場から始まる。現在は記念館として、かつての史料や施設が保存展示されている。
共楽館(大正9年)
東京銀座の歌舞伎座(二代目歌舞伎座)を模して造られたという。


 

本山劇場(大正2年)現存せず(上)

共楽館は戦後映画館として使用され(改修有)、閉山となった後は市民の武道館として使用されてきた。その結果、現在では部隊や客席は残っていないが、格天井はそのままに、楽屋には当時の役者の落書きや札が残されている。(左上)

劇場だったころの様子(左下)
共楽館の前にある武道場
共楽館通りの町並み
出桁造りの町家が一軒見られた。

銀座通り界隈の町並み

日鉱記念病院 企業名が付いた病院があるのは企業城下町ならでは
銀座通り商店街 まいもーる 
銀座通り商店街 まいもーる 
銀座通り商店街 まいもーる 
銀座通り商店街 まいもーる 
鹿島町1の飲食店街
鹿島町1の飲食店街
凝灰岩系の蔵
凝灰岩系の蔵
参考資料 リンク
日立市

参考文献