函館
北部
昭和9年の大火後に復興した函館の町並み

北海道
函館市
本町
中島町
若松町





交通
JR函館本線函館駅下車





五稜郭


中島町


若松町





2012.10.08
1454年(享徳3年)河野政道が函館山麓に箱状の館を築いたことにちなみ箱館と称したが、1869年(明治2年)に函館と改称。1512年(永生9年)アイヌの攻撃により一時衰退したが、1741年(寛保元年)番所が置かれ、1802年(享和2年)箱館奉行所が設置され、北海道開拓の拠点として繁栄した。1854年(安政元年)日米和親条約により下田港とともに開かれ、日米修好通商条約(1859年)により日本5港の一つとして開港場となる。そして函館は、明治、大正を通じて、北海道の漁業、商業の中心として繁栄した。函館の市街地は、やがて旧市街にあたる西部地区から北へと延び半島全体へと発達した。
一方、函館の市街地はしばしば大火に見舞われ、市内の至る所が火災の被害に遭っており、中でも1934年(昭和9年)の火災は、死者2166名、焼失棟数11105棟を数える大参事だった。
昭和9年3月21日、18:53頃、市域の南部にある住吉町で一軒の木造住宅が強風によって半壊し、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ瞬く間に燃え広がった。時間の経過とともに風向きは南から南西、そして西風へと時計回りに変わっていったため火の流れもそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3を焼失する規模となった。昭和9年の大火によって焼失した市域は、南部住吉町から北へ向かって宝来町、栄町、松風町、堀川町辺りまでである。歴史的建築物が多く残る函館港側と末広町から西の西部地区、中島町から北の五稜郭にいたるまでは類焼を免れている。
函館駅付近から五稜郭までの北部地区は、大火前と大火後の建物が混在する町並みが見られる。中でも中島町の「中島廉売」と呼ばれる商店街は、大火後に露天商が集まり市場が形成されたことに端を発するもので、いわゆるバラック街の面影を残す一角もみられる。
五稜郭内の原位置に復原された箱館奉行所 
本町の夜の飲食店街
千代台町付近で見かけた古い民家
所々に大火前のものと思われる蔵が残っている。
函館駅か湯の川へ向かう市電の走っている大通り
大火後に復興した町並み
函館市民の台所よ呼ばれる「中島廉売」
昭和9年の大火後に露天商が集まって作った市場が起源となった商店街。いまでも当初のバラック建築が見られる一角がある。(上、左上、左、左下)

自由市場(左)

菊水小路(上)
いわゆるブルーライン系だった遊里

参考資料 リンク
函館市

参考文献