蘇我 旧川崎製鉄千葉製鉄所の企業城下町

千葉県
千葉市
中央区
川崎町
今井1,2
南町1,2
宮崎1,2



交通

JR外房線京葉線蘇我駅下車徒歩




蘇我




2008.01.05
 川崎製鉄は戦後,昭和25年8月に川崎重工叶サ鉄部門が独立して設立された。工場は従前の兵庫・葺合・伊保・西宮・知多・久慈の6工場を継承したが、大規模な新製鉄所建設が計画された。用地としては最後まで山口県防府市と千葉県千葉市が競ったが、千葉市蘇我に決定した。その際には、埋立地建設と用水確保に苦心したという。終戦直前の千葉県は農業県だったのである。川崎製鉄の千葉誘致が京葉工業地帯の導火線となった。なお余談だが、川崎製鉄として製鉄業に乗り出したいきさつは、ドラマ「華麗なる一族」のモデルとなっている。
 工場建設とともに労働者が暮らす街の建設も開始された。蘇我の町は、当時の新産業都市建設の発祥,典型的事例となったといわれている。蘇我のあたりは東京湾に面して浅瀬が広がる潮干狩りの場所だった。埋め立て前の海岸線は現在の国道16号線で、海岸線に沿って街村が形成されていた。旧国鉄外房線はその集落の東側を走っていて、さらにその東側は集落のない田園地帯だったと思われる。新市街は駅東の何もない場所に建設された。つまり、旧集落をはさんで工場と新市街が造られた。
 駅と工場との間には、よくある工場正門前に見られる門前町(商店街など)が形成されていない。工場が大きすぎてバスなどで移動しており、間の町は単に通過されていたためなのだろうか。
 一方、駅東は都市計画された整然とした町で、企業城下町らしくJFE(旧川鉄)の社宅、運動施設、病院、厚生施設が町の中に点在している。中でも、倶楽部施設、研修所、独身寮が町の背後の丘の上にあって、町・工場・東京湾が一望できる。商店街や娯楽施設についてはこれらの計画された施設の間の要所に自然に形成されたものと考えられる。
 2000年ころまでは旧川鉄の施設がもっと町中にあったが、工場縮小とともに現在は別の用途に転換されている。工場跡地には大規模ショッピングセンターやスタジアムなどが建設されており、さらに再開発が進められている。
国道16号線に面するエリアのかなりの面積の工場が無くなり、ショッピングセンターやスタジアムなどに土地利用転換されている。蘇我の町がこれから変わる。(左)

旧工場正門は閉鎖されているが、事務所棟は残っている。

駅から工場へ向かうわずかながらの商店街。(上)
川鉄病院(南町)
川鉄→JFEへ社名が変更されたが、この施設だけ「川鉄」の名前が残っている。
JFE千葉体育館(南町)
川鉄創立20周年で建設された建物。
蘇我駅の東の4街区目に社宅が並ぶ。
JFE第三南町寮(左)と第二南町寮(上)。
菰池公園に展示されているSL
C型タンク飽和蒸気機関車といい、神戸市の川崎車両(現:川崎重工)で製造され、昭和28年頃から43年頃まで千葉製鉄所内において資材の運搬等で使用されていた。
社宅などの住宅街には戸建ての店舗が並ぶ。(左)

宮崎一丁目の丘の上にはJFE(旧川鉄)の厚生施設が建ち並んでいる。これは独身寮のビバーチェ宮崎。(下)


みやざき倶楽部(左)

JFE関連の建物は街の中に点在しているので、入ってももらいたくないエリアにはこのような看板が見られる。企業城下町でよく見かける。(上)
参考資料 リンク
千葉市


参考文献
JFEスチール株式会社