にっぽん集落町並み縦走紀行 
  
第31日 花巻(岩手県)~盛岡(岩手県)
     釜石  宮古


宮古鍬ヶ崎(岩手県)

 2012105日、名古屋出張から帰るや否や急いで旅支度をし家をとびだした。最終の東北新幹線で新花巻駅に22:11着、タクシーで花巻駅のビジネスホテルに着き浴衣に着替えたのが23:00である。明日から三連休、北東北を駆け抜け北海道函館までが縦走紀行第13弾の行程だ。

 106日朝、花巻駅前。昨夕大慌ての旅支度だったので半袖シャツをカバンに詰め込んで上着をもって出るのを忘れた。しばらく猛暑の旅が続いていたけど、暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものでここにきて急激に涼しくなった。しかもこの地は北東北、花巻の朝は寒い。天気がいいし基本歩きだから日中は問題ないとは思うけれど、どこまでもつか。
 花巻は地名の響きから何となく古い町並みがありそうに思えていたが、旧市街は戦災にあっているのでほとんどない。広い道とアーケードという戦災復興の町並みである。昭和57年に発行された町並み本に「花巻の同心屋敷」という妙な名前の町が紹介されている。向小路と称し、以前は南部郊外の奥州街道沿いの両側に短冊形に割られた敷地に15戸づつ、計30戸が建ち並んでいた。豊臣秀吉の家臣浅野長政は鳥ヶ谷崎にあって九戸の乱に当たったが、乱の平定後残していった配下の一隊が同心組となり、この町をつくり住んだという。かつての写真を見ると、曲り家が本屋の棟を通りに平行にして接し、突出部が座敷となっていた。面白いことに、その法則が通りを挟んで左右対称であったこと。しかし、原位置には民家の遺構はなく、通りから100mほど離れた田圃の中に移築復原されている。大学時代の私は古民家や集落の研究をしていたから復原民家には興味はあるが、万訪的には移築されたものへの興味は薄い。例え改修されていても原位置にあって「これは古い家だな」と見抜く方が面白い。やはり保存は原位置であって欲しい。保存民家にはボランティアのおばやんが居て建物の説明とお茶までご馳走してくれた。これからどこへ行くのかと聞かれたので釜石だと答えたらが、顔が曇った。やはり、大津波で被災した釜石を案じているのであろう。あまりゆっくりはしていられない。今日は走行距離が長いので、できるだけ早く釜石に着きたい。

【回想】遠野(岩手県)
 

花巻 同心屋敷の移築復原民家(岩手県)

花巻 かつての同心屋敷(岩手県)

花巻 同心屋敷跡の現在(岩手県)
 釜石街道は内陸部と海岸部を結ぶ主要幹線だけあって道路幅が広くコーナーも緩くて走りやすい。遠野は柳田國男の「遠野物語」で知られる地であるが、今回は通過する。花巻から二時間弱、釜石市街の端に来た。釜石の町は湾を河口とする甲子川に沿って細長く西の内陸へ延びている。そこを西から入っていと右手に新日鉄の工場があって会社関係の施設が町に散らばっている。工場正門前にある鈴子町を通ってみたが震災前の様子と変わりがないようだ。釜石駅も同様である。三陸鉄道の下をくぐり甲子川の大渡橋を渡ると釜石の中心市街地。すると気仙沼の時と同様に空地が目立ってきた。津波被害は大渡橋までが大きかったのであろう。前回は2009年に、宮古に住み釜石の経済史を研究している学者でもある友人と共に、新日鉄の企業城下町として釜石を取材した。その際歩いた釜石の中心商業地である大町。アーケードの商店街と工場との間には夜の街があった。しかし、港に近いこの街は、以前の姿を大きく変えていた。長い工場に沿った水路上に建ち並んでいた「のんべえ横丁」のバラック群は全て消滅しており、クラブ街もポツポツと建物が取り壊されずにあるだけで、営業はしていない様子である。
 
【回想】釜石 大町界隈

 さらに港に近い釜石で最も古いとされる漁師町の浜町へ行く。この町を大津波が飲み込む映像は
YouTubeで何度も見た。こうして実際に訪れてみると、瓦礫は片付けられた後であっても津波の恐ろしさを容易に想像することができる。釜石は戦災に遭っているので古い建物は少ないが、浜町には石造風の小さな銀行建築が残っていて戦前の貴重な遺構だった。しかし跡形もない。前回浜町を撮影した動画を見直してみたら、友人が「この町はかつて津波でやられたんだ」とコメントしていた。明治29年(1896年)、昭和8年(1933年)、戦災、そして平成の三陸大津波と繰り返し災害を経験している。でも、人はそこには住み続けてきた。2011.3.11.過去最大の大惨事を経験してしまったこの町は、これからどうなるのであろうか。旅人である私にはこの町の方々の気持ちはわからないが、ひとつ言えることは、大町の鉄筋コンクリート造の建物は残り、浜町も後ろの斜面に延びたエリアも残っており、生活や店舗の営業は続けられているということ。浜町のかつて遊郭のあった場所はことごとく破壊されてしまったが、山沿いの斜面を上ったところの料亭や蔵造りの建物は残っていた。

浜町 坂道に残る座敷蔵


【回想】震災前 釜石 のんべえ横丁

震災後 釜石 のんべえ横丁跡

【回想】震災前 浜町 旧遊里

震災後 浜町 旧遊里
 釜石から宮古へ向かい国道45号線を北上する。両石湾、大槌湾、山田湾とリアス式海岸の入り江が連続する。入り江の先端には港町や漁師町があるのだが、それらはことごとく消滅している。山田では旧遊里の一角を発見し取材をしていた町があったが、もうその姿は見られない。

 宮古を訪れるのは三度目になる。前回は3年前で古くからの漁村である鍬ヶ崎を取材した。今回も友人と合流して、取材していなかった閉伊川の左岸に形成された駅前エリアの市街地から歩く。商店街と裏町にあたる飲食店街、旧遊里などを巡る。3.11の大津波は駅前まで到達したようで、建物の外壁には水位の後が残っているものもまだある。旧遊里だったエリアは川が近かったため津波にのまれて無くなった建物が多く、蔵造りの町並みが見られた新町でも今回取材目的であった店蔵が残念ながら失われていた。

宮古 新町 店蔵は失われた

 さて、3.11以来、ずっと案じていた港に近い鍬ヶ崎はどうだろうか。鍬ヶ崎も釜石でいう浜町と同様に、港に一番近い町が大きなダメージを負った。まず浄土ヶ浜大橋から鍬ヶ崎地区を一望する。言葉を失う。


宮古 鍬ヶ崎 浄土ヶ浜大橋から臨む

 鍬ヶ崎のかつて歩いた場所に行ってみると、驚いたことに土蔵が一棟残っている。向かい側に鉄筋コンクリート造の旅館があったので、それに守られたようだ。前回食事した鮨屋も残っていて営業を再開している。ここでもその前に漁協の建物があった。宮古でも気仙沼でも、防潮堤や強固な建物によって津波のエネルギーが弱まり、奇跡的に残った建物がある。そして、鍬ヶ崎の背後の斜面に上る町はどうだろうか。ここは、鍬ヶ崎の津波の映像を見た際に残っているのではないかと願っていた古い町並みだ。残念ながら一番低い場所にあった古い建物は失われてしまっていたが、坂の途中からはきれいに被害を免れている。この町並みが鍬ヶ崎の歴史を伝える貴重な存在として復興の街づくりに意識されることを願う。


宮古 鍬ヶ崎 津波を免れた古い町並み

 探訪を終え日が傾いてきた。もはや半袖シャツでは我慢ができない。宮古市内の格安洋品店でカーデガンを買った。友人と別れ閉伊街道で2時間、盛岡駅前のビジネスホテルで第30日を終えた。

【回想】山田 旧遊里(岩手県)

【回想】震災前 宮古鍬ヶ崎(岩手県)

震災後 宮古鍬ヶ崎(岩手県)

宮古鍬ヶ崎 左の強固な建物が土蔵を守った

【回想】震災前 宮古鍬ヶ崎(岩手県)

震災後 宮古鍬ヶ崎(岩手県)
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