にっぽん集落町並み縦走紀行 
 
プロローグ

 
 日本は、海に囲まれた島国である。領土は南北に長く、亜寒帯から亜熱帯へと気候風土が多様であり、山地が73%を占め起伏に富んでいる。人口密度が高く農耕民族であることによって、日本人はあらゆる土地を開拓し住みついてきた。したがって、この国では、都市から山岳、孤島にいたるまで国土の隅々に人が住み、様々な歴史と風土をもった集落や町並みをみることができる。このような、いたるところに人が住みわたっている国は、世界の中でも珍しいのではないだろうか。
 歴史、自然、生活によって創り出された日本の特徴ある集落町並み。それら固有の特徴というのは、歴史が継承されていたり、厳しい気候風土により生まれたものであったり、また都市が形成されてゆく中で創られた景観である。少年の頃から旅の好きだった私は、ある時から観光名所よりも人の暮らしが創り上げた集落や町並みに興味をもち訪ねるようになった。47都道府県の中で行かない県が無くなった頃をきっかけに、集落町並みを紹介した様々な文献、インターネットサイト、さらにテレビや映画などをも対象にして、そこで紹介されたものに自分が見出したものを加え、「集落町並みリスト」を作成した。そして、訪ね歩いた場所を順次「集落町並みデータベース」として纏め、2003年に「集落町並みWalker」というまち歩き情報サイトを立ち上げた。その後も、精力的に探訪を続けて、2011年末の時点で1951ヵ所となった。北は北海道礼文島から、南は沖縄県石垣島近傍の竹富島に至るまで、ほとんどのエリアに足を踏み入れ、集落町並みを歩いたことになる。

 集落町並みというのは面白いもので、数年前は珍しくもなかった場所が時代の中で輝きだすこともあれば、歩けば歩くほど興味の視野が広がることになり、その数はどんどん増えていく。私は、集落町並み探訪の魅力に際限なくはまっていった。しかし一方で、「このキリのない探訪を少年時代と変わることなくただひたすら続けていて良いものだろうか」と思わないわけではない。歩き始めて30数年になること、探訪2000ヵ所が目前であること、もうすぐ50歳を迎えることなどを機会に、ちょっと大げさではあるが、わが人生を見つめなおしこれからを考えるうえで、ここらで一つの区切りをつけたほうが良いのではないかと思うようになった。

 そこで、主要な文献で紹介されている集落町並みの未踏地を「是非訪れるべき重要未探訪地」として数え上げてみた。54ヵ所であった。これらをすべて訪れると2000ヵ所を越えることになる。次に、それら重要未探訪地54ヵ所を日本全図に落としてみた。右の地図リストを拡大してご覧いただきたい。28都道府県、日本最東端の根室市納沙布岬は昨年訪れているものの、最北端の稚内市宗谷岬から最南端の沖縄県波照間島・最西端の与那国島までの約3000km、島が10島、城下町、宿場町、山村漁村、都市に至っている。中には、一週間会社を休まないと行くことができない難所の小笠原諸島父島も含まれている。なんと全国に散らばっていることか。でも、いままでの経験から、これらを訪ねることはさほど困難には思えなかった。しかし、これらを機会に任せてただ潰していくのでは面白くない。日本列島を身体で感じるために、限られた時間で端から端へ一筆書きのように順番に訪ねることができないだろうか。私は、時刻表と道路地図を傍らに置いて一通りシミュレーションをしてみた。そして、答えは「で・き・る」であった。休暇はとれるかどうか不確定なので週末だけをあてにしなければ実現できないが、その気になりさえすれば、基本的に毎月1回の週末(連休も含む)を使うことでやれそうである。日本最南端の集落から始めて、その旅の終点が次の旅の始点になり、それを繰り返しながら列島を北上していく。頑張って一年、遅くても二年あればできる。

 ということで、2012年正月、私は、この年齢になって人から無謀ともバカバカしいとも言われそうな、「にっぽん集落町並み縦走紀行」を始めることを決意したのである。
 

集落町並み 重要未探訪地 54カ所のプロット
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重要未探訪地54か所のリスト
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第1日  波照間(沖縄県)~石垣川平(沖縄県)
      波照間
 

 2012年1月21日(土)12:30、私は今、沖縄県波照間島の港から坂を上がった波照間集落の入り口付近にある食堂「あやふふぁみ」にいる。ランチのカレーを食べ終わったところである。店内には民族音楽のような曲が流れている。冬だけど窓やドアは開けっ放しなのは、最南端の集落ならではであろう。気温は19℃だ。波照間島は、沖縄本島から約500km離れた石垣島からさらに南西60kmのところにある小さな島で、ここから南には日本領土の有人島は無い。つまり、ここ波照間島が日本列島の中で人の住んでいる最も南の地ということになる。
 今朝は、東京羽田空港を早朝に発ち、石垣空港~石垣港と乗り継いで、5時間かけてこの島にやってきた。港から緩やかな坂道を上るとサトウキビ畑があり、村の人たちが収穫作業に勤しんでいた。その風景を撮影していたらちょうど正午のサイレンが鳴り、ひとりの掛け声とともに皆一斉に作業を終えて、近くに停めていた軽トラックやバイク・自転車に乗って昼食をとりに各々自宅へ戻っていった。「いやぁ、波照間島に来たんだなぁ」と感じた。
 この小さな食堂から大きな旅が始まる。興奮と不安でお尻のあたりがムズムズしてくる。

サトウキビの収穫風景

 波照間島は、楕円形の平坦な島。外周から中心に向かって徐々に高くなっている、典型的な隆起サンゴ礁の島だ。集落は真ん中の一番高い場所にあって、周囲はサトウキビ畑や牧場に囲まれている。このような平坦な隆起サンゴ礁の島は沖縄には多い。石垣島のすぐ近くにあり、国の重要伝統的建築物群保存地区(重伝建)にもなっている竹富島も同様である。
 集落の西側から歩き始めるとすぐに「いい集落」の手ごたえを感じた。保存整備こそなされていないが、先島諸島の集落として自然体の姿である。しばらく歩いて家が途切れた。こんなに小さいの?と地図で確かめたら集落の本体はやや離れていてもっと大きい。最南端の岬にも行きたいので、これはもう徒歩では無理。竹富島の感覚で歩いていたら間違ってしまう。波照間島は竹富島より二周りも三周りも大きい。

ニシハマビーチ
 
 さっそくバイクを借りて名所のニシハマビーチを拝んだ後、波照間集落の中心エリアまで走り、郵便局の脇にバイクを停めて歩き始めた。集落の中心部には小学校+中学校、郵便局、酒造所、売店などがあり、東の方へどんどん伸びている。沖縄の島の集落は、比較的整然とした碁盤目状の町割りが特徴であるが、ここではそれを部分的には守っていながらも変形して四方へ伸びていっている。屋敷構えは、琉球石灰岩の切石やサンゴ石を積み上げただけという石塀(コンクリートブロックに置き換えている家もある)が共通していて、フクギの屋敷林もみられる。しかし、敷地の入り口に供えられているヒンプン(目隠し塀)があまり見られない。存在する家もあるので、もともとはあったのだが、クルマの駐車などのために邪魔になり撤去したのであろう。屋根は赤瓦の本瓦葺きという沖縄ならではのもの。竹富島などではオキマリのシーサーが屋根の上に乗って入り口を睨んでいるが、ここではシーサー率が低い。シーサーは本来は沖縄本島の北部にしか見られなかったものだそうだから、この方が本物なのであろう。

島の街角にはオバやんが良く似合う

 たっぷり時間をかけて、集落を隅々まで歩く。日本最南端の電気屋さん、日本最南端の家(おそらく)も確認した。ある家の中からは三線の音が聞こえてきた。三線教室のようで複数人で弾いている。島歩きにはとても良いBGMである。

家の中から三線の音色が、、、

 バイクを走らせて有人島での日本最南端之碑に行った。逆三角形に手書きのロゴで「日本最南端之碑」とかかれ大海原を指している。私は碑の指す先に立って大海原を背にし北を向いた。ここから約3000km先に北海道稚内と宗谷岬がある。必ずや旅を完結させてみせると誓った。

日本最南端之碑 ここから遠く北海道稚内方向を臨む
 

 波照間島から石垣島へ向かう。天気は下り坂で、海が荒れてきている。高速艇は高い波をものともせず、通常のスピードで航行するため無茶苦茶揺れた。一時間ジェットコースターに乗っているかのようだった。
 石垣港17:45着。川平リゾート線バスの発着するターミナルは、港のすぐそばだった。バスには私の他四五人で、ほとんどが川平公園バス停で下りた。辺りは真っ暗で、どっちの方向に行けば宿にたどり着くかわからない。降りた人たちは皆地元住人のようで、私は暗闇の中に一人残された。宿に電話をして道を聞いた。「降りたバスの走って行った道をその方向へ歩いて行って、10分くらいしたところに消防署がある。うちはその手前サー。」
 第1日の夜は、オリオンビールで一人乾杯し、泡盛でつぶれた。
 

波照間集落の入り口付近にある食堂「あやふふぁみ

わが国最南端の造り酒屋 波照間酒造所

サンゴ礁石とフクギの道

波照間の古民家(ヒンプンは撤去されている)

ヒンプンの残っている家

わが国最南端の電気屋さん

わが国最南端の家(と思われる)

琉球石灰岩の丁場(石切場)

石垣島川平集落での酔い冷ましの夜散歩
 
 
 第2日