東京山の手1 白金・神楽坂・牛込柳町・烏山寺町 (2004.09.12)
 

今日は東京山の手の町並みを歩こうと思う。「昼までに帰ってくれば行ってきてよろしい」という条件なので、早朝6時半に下目黒の自宅を出た。
 
白金(東京都港区)
まず、自宅から一番近い町並みのある白金を久しぶりに歩くことにした。若者に人気の外苑西通りにはコジャレたブティックやレストランが並んでいて初めて歩いてみた。しかし一歩奥に入ると閑静な住宅街で洋館も残っていた。
台地下の古川沿いは丘上の住人を商圏とした商店街。江戸時代から近代にかけて栄えた。丘に阻まれて戦災を免れているので、戦前の看板建築や出桁町家も残る。しかし、3年前に確認していた「三越湯」に気づかなかった。もしかしてなくなったか?。北里大学の建物も建て替わり、高層マンションが次々に建設されている。
再び三光坂を丘に上がる。ここらは大きなお屋敷が今も残る。最後に目黒通りの起点である清正公前交差点の旧道に残る2棟の出桁町家を確認。ここは高輪の門前町へつながる旧道で、数年前まで通りの両側に町並みが残っていた。藤森照信氏の絶賛する町家もあったが、地下鉄の換気棟を造るために町並みの片側が壊され、現在残されているのは2棟だけ。あの時歩いておけばと悔やんでももう遅い。
白金高輪駅から町並みを壊した原因の地下鉄に乗って神楽坂へ向う。
神楽坂(東京都新宿区)
何時だったか神楽坂にある予約制の小さな料亭で忘年会かなにかをしたことがあった。細い路地を入っていった記憶が残っている。前回牛込を歩いたときにその場所を探したが見つからなかった。今回はきっちりした調べをしての訪問である。
旧牛込御門前から毘沙門天へ向う神楽坂商店街を上っていく。はじめに通りの西側に入ってみる。地形に沿って緩やかにカーブする通りに飲食店や銭湯があるが目的の場所ではない。今度は通りの東側に入ってみる。しばらく行くと脇に入る路地があり石畳になっている。「ここが神楽坂遊郭だったのか」と確信し奥へと入っていった。
復員2m程度の石畳の路地はスッと西へ一本伸びていて、黒板塀の向こうに板壁や黄土色のモルタル吹き付け壁の建物と小さな庭に植えられ路地にはみ出す樹木といった小さな飲食店が並んでいる。すべてが営業をしていないようだが、江戸情緒を感じることができる。
さらに北へ進んでいくと迷路状に展開。土地の起伏がグッと下がるところで遊郭街は終わり。そこには昨今の高層マンションが建っていた。

神楽坂をさらに北上し大久保通りを渡る。牛込台地は江戸時代の下級武士の屋敷町が原形で整然とした区画の住宅地となっている。その中をひたすら西へ西へと歩いていった。
牛込柳町(東京都新宿区)
外苑東通りと大久保通りが交差する「市谷柳町」の交差点。丘上は、近世の武家屋敷、近代のサラリーマン住宅地で、丘下谷あいは商店街となっている。今日最初に訪れた白金と非常に良く似た町の構成だ。商店街もモルタル看板建築が多く白金とそっくり。丘上の住宅地には所々洋館もありこれもそっくり。ただ、白金は大きな武家屋敷だったのに対して牛込は組屋敷なので敷地が小さい。といっても現代の住宅よりかは全然大きいのだが。
牛込柳町はバスでしかいけない場所だったが、最近都営大江戸線が開通して便利になった。その点でも白金とそっくり。高層マンションが建ち始めている点でもそっくり。

烏山寺町(東京都世田谷区)
牛込柳町駅から新宿に出て、今度は世田谷区千歳烏山へ向う。
烏山は旧甲州街道沿いの街だが歴史を感じる町並みは残っていない。交番前交差点からまたひたすら北上する。中央高速道路の高架下をくぐると突然森が現れた。昭和初期に震災で焼けた下町の寺院が引っ越してきて造った寺町。通りの両側に茂る大木の並木と塀の連続は、町の性格は違うけれど秋田県の角館のようだ。各寺院の表門は甲州街道方面からやってくる人を迎え入れるようにすべて南斜めに開いているのが面白い。